蝶よ花よ
理世を見送ったあとも、伊吹はしばらくの間、一人で佇んでいた。
その背後に一台の牛車が音もなく止まり、牛車を囲んで馬に乗っていた男達が一斉に下がり、その場に跪く。
「ああ、迎えをご苦労」
刹那にして甘さを失った伊吹の表情は、すでに支配者のものになっていた。
牛車から鞍馬が下りてきて、伊吹の肩を叩く。
「甘ったるい夢は見られたか?」
「一生分ね」
「あーあー、僕も女の子と夜遊びしたいなー」
「鞍馬さんじゃ無理だね」
「はは、今すぐてめぇの首を取ってやろうか」
その張り詰めた空気の中で、伊吹はゆっくりと視線を持ち上げた。
「それで、頼んでいたことはできたの?」
「……まぁな」
「権力者が嫌いでもやってくれるんだね」
「金払いの良い権力者は好きだからな。……本当に心の底から理世ちゃんには同情するよ。こんな奴に興味を持たれたんだからな」
「奇遇だね、俺もだよ」
本気か嘘か分からない口調で伊吹が答える。
鞍馬はゴソゴソと懐から一枚の紙を取り出した。真っ白な紙からは、かすかに柑橘の香りがする。
柑橘の汁で書かれた文字は透明になって、浮かび上がらせるまで見ることはできない。
牛車の行灯にかざすと、細かい文字がびっしりと浮かび上がった。
「ほらよ。頼まれてた身辺だ。出生、経歴、今の立場、関わってる人間……一通り洗ってある」
伊吹はそれを受け取り、軽く目を走らせる。
「……綺麗だね」
「だろ?裏も探らせたが、妙な繋がりは一切ない。むしろ拍子抜けするくらいだ」
「俺はきっと、理世さんと生きてる世も見てる景色もまるで違うんだろうねぇ」
「当たり前だろ。お前は怪しすぎるんだよ」
「やだなぁ、裕福さと悪は関係ないよ」
鞍馬は、じっとその横顔を見た。
そして、鋭く目を細める。
「……何一つ不自由なく育った人間は、お前みたいな目をしねぇよ」
「目?」
伊吹は首をかしげた。
「地獄を一度見たことのある奴の目だ。あるいは、まだ見てるのか……」
わずかな沈黙が落ちる。
「それを理解できる鞍馬さんも、お気の毒と憐れむべき?」
淀みなく言い返した伊吹の口調は、いつもと同じく穏やかだ。
けれど、伏せられた瞳には底知れない光がゆらりと揺れ、その口元に宿る微笑みは不穏だった。
「教えて、鞍馬さん。富を欲しいまま手に入れられるようになるまでは、醜いものばかり見て生きてきた?」
「…………」
鞍馬は言葉を続けなかった。
伊吹もまた、笑みを崩さないまま、何も言わなかった。
見えない緊張の糸が息苦しいほど二人の間に張り巡らされている。
「性格わっる!」
張り詰めた空気を、鞍馬が乱暴に引き裂いた。
ガシガシと頭を掻きながら、あからさまに顔をしかめる。
「うーわ、優雅ななりして人の言われて嫌がるところを突く類の外道。なるほど、やっぱり外見詐欺の看板を作ってやるよ」
「言いたい放題だね。あと、冗談だよ。ごめんね」
「ところで、伊吹。理世ちゃんをどうするつもりだ?」
「今まで通り、普通に接するよ」
伊吹はそう言って、紙を懐にしまった。その様子を見ながら鞍馬は鼻で笑う。
「普通、ねぇ。……お前の普通はだいぶ歪んでるぞ」
「そう?」
伊吹は首をかしげ、夜風が着流しの裾を揺らした。
「身元を洗う時点で普通じゃねぇだろ。普通って言葉の意味を調べてこいよ」
「彼女にとっての普通は、町で団子を食べて、友達と笑って、患者を診て、たまに俺に振り回されること」
「随分と都合のいい普通だな」
「そうかな」
伊吹は軽く笑う。
「じゃあ、鞍馬さんの普通は?」
「金と信用と、殺されない程度の距離感」
即答だった。
伊吹は「へぇ」とだけ返して、少しだけ空を見上げる。雲の切れ間に、細い月が覗いていた。
「ほら、やっぱり違うね」
「違うからって、好き勝手やっていい理由にはならねぇぞ」
「分かってるよ」
その返事は、やけに軽かった。
分かっていると言いながら、分かっている顔ではない。鞍馬はそう感じたが、二人はわざわざそんなことを口にするような間柄ではなかった。
「……相変わらず気持ち悪ぃ考え方してんな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒めてるように聞こえるなら病気だな。次は善良な一般人になれるように来世に期待しろよ」
「君もね」
軽口を流しながら、伊吹は興味を失ったように視線を外し、牛車へと向ける。
「もう夜も遅いから帰ろうか」
「一人で帰って、一人で事故れ」
鞍馬の投げやりな言葉に、伊吹は一瞬だけ肩を揺らして笑った。
その背後に一台の牛車が音もなく止まり、牛車を囲んで馬に乗っていた男達が一斉に下がり、その場に跪く。
「ああ、迎えをご苦労」
刹那にして甘さを失った伊吹の表情は、すでに支配者のものになっていた。
牛車から鞍馬が下りてきて、伊吹の肩を叩く。
「甘ったるい夢は見られたか?」
「一生分ね」
「あーあー、僕も女の子と夜遊びしたいなー」
「鞍馬さんじゃ無理だね」
「はは、今すぐてめぇの首を取ってやろうか」
その張り詰めた空気の中で、伊吹はゆっくりと視線を持ち上げた。
「それで、頼んでいたことはできたの?」
「……まぁな」
「権力者が嫌いでもやってくれるんだね」
「金払いの良い権力者は好きだからな。……本当に心の底から理世ちゃんには同情するよ。こんな奴に興味を持たれたんだからな」
「奇遇だね、俺もだよ」
本気か嘘か分からない口調で伊吹が答える。
鞍馬はゴソゴソと懐から一枚の紙を取り出した。真っ白な紙からは、かすかに柑橘の香りがする。
柑橘の汁で書かれた文字は透明になって、浮かび上がらせるまで見ることはできない。
牛車の行灯にかざすと、細かい文字がびっしりと浮かび上がった。
「ほらよ。頼まれてた身辺だ。出生、経歴、今の立場、関わってる人間……一通り洗ってある」
伊吹はそれを受け取り、軽く目を走らせる。
「……綺麗だね」
「だろ?裏も探らせたが、妙な繋がりは一切ない。むしろ拍子抜けするくらいだ」
「俺はきっと、理世さんと生きてる世も見てる景色もまるで違うんだろうねぇ」
「当たり前だろ。お前は怪しすぎるんだよ」
「やだなぁ、裕福さと悪は関係ないよ」
鞍馬は、じっとその横顔を見た。
そして、鋭く目を細める。
「……何一つ不自由なく育った人間は、お前みたいな目をしねぇよ」
「目?」
伊吹は首をかしげた。
「地獄を一度見たことのある奴の目だ。あるいは、まだ見てるのか……」
わずかな沈黙が落ちる。
「それを理解できる鞍馬さんも、お気の毒と憐れむべき?」
淀みなく言い返した伊吹の口調は、いつもと同じく穏やかだ。
けれど、伏せられた瞳には底知れない光がゆらりと揺れ、その口元に宿る微笑みは不穏だった。
「教えて、鞍馬さん。富を欲しいまま手に入れられるようになるまでは、醜いものばかり見て生きてきた?」
「…………」
鞍馬は言葉を続けなかった。
伊吹もまた、笑みを崩さないまま、何も言わなかった。
見えない緊張の糸が息苦しいほど二人の間に張り巡らされている。
「性格わっる!」
張り詰めた空気を、鞍馬が乱暴に引き裂いた。
ガシガシと頭を掻きながら、あからさまに顔をしかめる。
「うーわ、優雅ななりして人の言われて嫌がるところを突く類の外道。なるほど、やっぱり外見詐欺の看板を作ってやるよ」
「言いたい放題だね。あと、冗談だよ。ごめんね」
「ところで、伊吹。理世ちゃんをどうするつもりだ?」
「今まで通り、普通に接するよ」
伊吹はそう言って、紙を懐にしまった。その様子を見ながら鞍馬は鼻で笑う。
「普通、ねぇ。……お前の普通はだいぶ歪んでるぞ」
「そう?」
伊吹は首をかしげ、夜風が着流しの裾を揺らした。
「身元を洗う時点で普通じゃねぇだろ。普通って言葉の意味を調べてこいよ」
「彼女にとっての普通は、町で団子を食べて、友達と笑って、患者を診て、たまに俺に振り回されること」
「随分と都合のいい普通だな」
「そうかな」
伊吹は軽く笑う。
「じゃあ、鞍馬さんの普通は?」
「金と信用と、殺されない程度の距離感」
即答だった。
伊吹は「へぇ」とだけ返して、少しだけ空を見上げる。雲の切れ間に、細い月が覗いていた。
「ほら、やっぱり違うね」
「違うからって、好き勝手やっていい理由にはならねぇぞ」
「分かってるよ」
その返事は、やけに軽かった。
分かっていると言いながら、分かっている顔ではない。鞍馬はそう感じたが、二人はわざわざそんなことを口にするような間柄ではなかった。
「……相変わらず気持ち悪ぃ考え方してんな」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒めてるように聞こえるなら病気だな。次は善良な一般人になれるように来世に期待しろよ」
「君もね」
軽口を流しながら、伊吹は興味を失ったように視線を外し、牛車へと向ける。
「もう夜も遅いから帰ろうか」
「一人で帰って、一人で事故れ」
鞍馬の投げやりな言葉に、伊吹は一瞬だけ肩を揺らして笑った。


