夜を誘惑する華――Jazz singer
「さぁ。どうぞう」

 ハッと我に返り、ピアノを優しく奏で始める。
 最初のメロディーはゆっくりと始まる。次第に歩き始めるような、少しテンポの早い曲に変わる。女性を見つめながら弾いていると目を奪う。

 バーの薄暗いオレンジ色の光が顔に当り、切ない雰囲気に見えた。まつげは長く、美しい容姿は今日にしか会えない……そんな幻に感じる。

 その時……閉じている口が開いて、透明感のある儚(はかな)い歌声で歌い始めた。

 His bite mark is carved deep into my skin,
(彼の噛み痕が、私の肌深く刻まれている)

 A silent curse that slowly seeps within.
(ゆっくりと内側を蝕む、静かな呪いのように)

 I tried a new kiss with somebody new,
(新しい人と出会って、キスをしてみた)

 Yet the mark he left still hurts through and through.
(けれど、彼に残された傷痕が激しく痛み続ける)


 ――色気を感じる歌は、今まで音楽に興味を示さないでお酒を飲みにバーに来た客の視線を奪い、虜に変える。


 The spark fades quickly, turning cold and dry,
(キスの高鳴りはすぐに冷めてゆき)

 I fight back the tears I shouldn't cry.
(流してはいけない涙を必死に堪える)

 I shed so many tears just to break away,
(あれほど涙を流して別れを決めたはずなのに)

 Yet I'm the only one still trapped today.
(今日になっても、私だけが囚われたまま)


 ――いつもの以上に深く演奏にのめり込み、まるで女性と一体になるように感じる。この気持ちが何か分らないが……とても落ち着く。

 Kissing person after person, but he never leaves my mind,
(誰とキスを重ねても、彼が頭から消えてくれない)

 The more I touch another, the more I'm pulled behind...
(誰かと触れ合えば触れ合うほど、彼のもとへ引き戻される…)

 Back to the mark that keeps me bound,
(私を縛りつける、あの噛み痕のもとへ)

 While he vanished in the dark, nowhere to be found,
(彼は暗闇へと消え去り、どこにもいないのに)

 Leaving a scar that won't undo.
(消せない傷だけを残して。)


 ――少しテンポが遅くなると、呟くように歌い始める。


 If I had known it’d hurt like this, I should’ve run after you...
(こんなことになるなら、あなたを追いかければ良かった…)

 Ah, no one else was ever as damn fine as you.
(ああ、あなたほど格好良い奴なんて、他に誰もいなかったよ。)


 大きな歓声と拍手が起きると慣れたようにお辞儀をした。

 私はこの日……女性の虜になった。
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