アリスズ

 イデアメリトスが、敵とみなす相手を前に──叔母が眠ってしまった。

 ありえないことだ。

 こんな場面で悠長に寝るなど、おそらく自身でも許せないほどの失態だろう。

 これが、彼の魔法か。

 だが、歌を聞いた者に等しく効くものではないようだ。

 現にアディマは、眠くはならなかった。

 不思議な心地よさには、抗わなければならなかったが。

 アディマは、まっすぐにトーと呼ばれる男を見据えた。

「単刀直入に聞かせてくれ…君は月の者か?」

 害意はない。

 怯えもない。

 怒りもない。

 だが──そこにいる。

 そこにいるのが何者なのか、彼は知らねばならなかった。

 トーは、目を閉じる。

「そうであって…そうではない」

 だが、唇は開いた。

「私は、永く一人であろうとした。永く歌うまいとした」

 目は閉じられたまま。

 詩を読むように力強い流れの言葉が、音をたどる。

 音を司る者、と言った方が正しいのか。

 耳を傾けずにはいられない、言葉の中に抱えこまれる魂の響き。

「私には太陽が必要で、人々には夜が必要で、夜は人々に愛される必要があった」

 物語仕立ての歌が、アディマの中を流れて行く。

 トーが語るごとに、昼と夜の景色が目まぐるしく移り変わるのだ。

「だから、私は歌いに来た。必要な人が聞いて行くだろう。必要でない者は立ち去るだろう。それでいいのだ。それでいいと、この娘が言った」

 目が、開いた。

 緩やかに始まった歌は、彼の言う『この娘』で閉じられたのだ。

 トーの隣にいる、キク。

 小さな、風を起こす者だ。

 ケイコもそうだった。

 その小さな異国の風が、アディマを動かし、トーを動かす。

「歌うことで、命を奪われるとは…思わなかったか?」

 アディマは──キクの風の、真正面に立った。
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