アリスズ

 はっと我に返って顔を上げると──男が、自分を見ていた。

 あら?

 驚いて、梅がキョロキョロと辺りを見回すと、既に夫人の姿はない。

 ただ、使用人が一人、側に控えていた。

「わ…わたし…」

 梅は、カァっと恥ずかしさに頬を赤らめる。

 ついつい本に夢中になって読みふけっていたことを、ようやく理解したのだ。

 夫人があきれて、先に戻ってしまうほど長い間。

「気に入られたようですね」

 その間。

 行商人は、勝手に出て行くことも出来ず、そこで辛抱強く付き合ってくれたのだろう。

「ごめんなさい…私ったら」

 ますます、頬が赤くなる。

 こんな失態をしてしまうなんて、自分でも信じられなかった。

「女性で、小難しい本にそんなに興味を示した方は、初めてですよ」

 薄く、男は笑った。

 その笑い方が、少しだけ菊に似ている気がする。

「あ、あの…この本…」

 買いたいと言いかけて、夫人がいないことを思い出す。

 彼女の一存で動かせるお金など、まったくないのだ。

 屋敷に住んでいる分には、金銭取引など発生しないのだから。

 夫人に、許可を取ってこなければ。

 梅が、正座を解いて立ち上がろうとしたら。

「ああ…御代は既に受け取っています。三冊分」

 男は、静かに彼女の動きを止める。

 そんなやりとりにさえ、気づかなかったなんて。

 そして、ようやく彼は荷物を片付け始めた。

 支払いが終わっているのならば、先に片付いておいてもいいのに、そうしないのが、彼の商売人魂のなせるところだろうか。

「ありがとう…素晴らしい本を、本当にありがとう」

 梅は、三冊を重いながらに胸に抱え、男に謝意を告げる。

 彼は、困った顔をした。

「ただの商売です…お礼を言われることではありません」

 それが、この国のしきたりなのか。

 だが、梅は膝をついたままにこりと微笑んだ。

「でも、あなたが来なければ、私は一生この本と出会えなかったかもしれないでしょう?」

 彼女の言葉に──男は、微かに目を細めた。
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