はぐれ雲。
鉄の重い扉を開ける音がして、慌てて博子が靴を脱いでいる気配がした。

「あの…おかえりなさい」

テレビを見る達也の後ろ姿に、恐る恐る声をかけてくる。

流産のことで言い合ってからというもの、二人の間には前にもまして、ぎくしゃくした空気が流れていた。

「どこ行ってたの」

振り返ることなく、達也は訊く。

「牛乳、切らしてて」

そう答えると、牛乳パック2本をテーブルの上に置いた。

「夕飯、支度するね」


慌しく動く博子を背に感じる。

達也はテレビなど見ていなかった。


今日は早めに帰ろうと思った。

「どや?今日は飲みに行かへんか?」

桜井が人懐っこい笑みを浮かべながら、誘う。

「すみません、今日はちょっと…。次はぜひお供させてください」

申し訳なさそうな顔の達也に、桜井は手を振って笑った。

「かまへん、気にすんな。独り身やから帰ってもすることあらへんから、誘ってみただけや。ほな、また明日な」

達也は桜井の背中に頭を下げると、携帯を取り出した。

「今から帰る」そう電話をしようと、博子の携帯番号を呼び出した。

ふと、発信ボタンを押す手が止まる。

突然、ある場所へ行ってみようと思い立ったのだ。

そしてポケットに携帯をしまうと、達也は博子の実家の方角へ向かった。



真梨子が言っていた、博子の実家近くの広い河川敷。

そこがあの二人の思い出の場所だ…と。

達也もそこを知っていた。

なぜなら、博子にプロポーズした場所でもあるのだから。

なんて皮肉なのだろう。
よりによってあの場所で結婚を申し込むなんて。

彼女はどう思っただろう。


達也は土手をあがった。

辺りは深い紫色の光に包まれている。

ちらほらと河川敷に設けられた遊歩道の外灯が、道なりに点灯していく。

向こう岸のビルや民家の窓からも光が漏れていた。

そんな景色を達也はひとり、眺める。

博子と新明亮二は、ここを一緒に歩いていた。

この風景を見ながら…

この風を感じながら…

何を話しながら、ここを通ったのか…


< 227 / 432 >

この作品をシェア

pagetop