空しか、見えない
 岸からどんどん遠くなっていく恋人が、やがてまた弧を描いて帰ってくる。朝焼けの中で、全身に水滴を光らせて帰ってくる。吉本の全身は少々毛深くて、芙佐絵ははじめ、それが少し怖かった。でも今では、胸元の巻き毛も、太ももにもじゃもじゃ生えた海藻のような体毛も、みんな芙佐絵の心を安らがせる存在になった。
 芙佐絵はこの遠泳は、きっといつまでも自分の中の心の宝物になって輝くはずだと思っている。
 これまで、彼女の一番の宝物は、10年前のおしゃもじだった。そう、何より大切にしたまま、もう10年も経ってしまっていた。ハッチのメンバーとの思い出が、いつまでも大切だった。もちろんこれからだって大切だ。けれど芙佐絵は、そこから先へ何一つ踏み出せていない自分がずっと歯がゆかったのだ。
 でも、なぜなのだろう。今だって、あのときと同じ岩井海岸で泳いでいるというのに、その先の海を泳いでいる気がしてならないのだ。責任感いっぱいで、誇らしげに先導を務めてくれている吉本の声に、呼応しながら。
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