空しか、見えない
「一度、浮き身するぞー。浮き身、用意」

 吉本が合図を出したのだろう、漁船よりメガホンごしの声が響く。
 佐千子は、少し緊張する。昔、なかなかうまく水に浮けなかった記憶が甦る。息を深く吸い、思い切って、体を水面で翻す。
 両手両足を広げ、全身から力を抜く。
 隣で同じように、のぞむが長い手足を広げているのが横目に入る。
 誰にも支えられず、どこにつかまれるわけでもなく、木の葉のようにさざ波に揺られる。水に浮いていると、ふいに佐千子の胸が熱くなった。少し嗚咽が漏れた。

「サセ、どうした?」

 呼吸を落ち着かせながら、のぞむが訊いてくる。

「こんな遠くまで、泳いできちゃったね、私たち」

「な、サセ、手つないでいいか?」

 急にそんなことを言われ、佐千子は動揺してしまう。

「手なんて……」

 口ごもり、そっと手を伸ばすと、のぞむの長い指につかまれた。どちらの手も冷たく濡れていて、手と手の間に水がある。なのに、佐千子には、その手が温かい確かな支えのように感じた。
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