愛を教えて
偽名では正規の仕事は得られない。太一郎は自分の無力さを認め、卓巳に頭を下げる心積もりで戻って来たら、この有様だった。



「卓巳さんは社長を辞めると言っています。それ以外はひと言も話さず、仕事も放棄して、部屋に閉じこもってしまいました」


仕事の鬼と言われる卓巳が仕事を放棄など、まさに青天の霹靂だ。

いつだったか、卓巳は暴漢に襲われ、肋骨を折ったことがあった。だが、その日のうちにコルセットをはめてニューヨークに商談に出かけたくらいだ。


「なんでだよ。そんな……卓巳に限って」


今になって思えば、太一郎は卓巳に憧れていた。

それが自分の中で上手く処理できず、反抗することでしか表に出せなかった。


すべてにおいて完璧だったはずの卓巳の現状に、太一郎は何を言えばいいのかわからない。


そのとき、千代子がおずおずと口を開いた。


「部屋付きの雪音さんに聞きましたところ。太一郎様との関係を疑い、一時の激情に駆られ……万里子様に随分酷い仕打ちをなさったようでございます」

「なんで疑うんだよっ! バカじゃねぇのか」


激昂する太一郎に皐月は答えた。


「仕事が人生のすべてであった卓巳さんが、仕事を辞めると言うほどです。己の愚かさは、一番承知しているでしょう」


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