惑溺
 
どうして矢野くんは恥ずかしげもなく、こうやって正面から人の顔を覗き込むんだろう。

話しかけてくる時の距離の近さに、さっきから体を引いて分かりやすく避けているのつもりなのに。

彼はまったく気づいてないのか
気づいてもお構いなしなのか
それともただの酔っ払いなのか。

どんどん距離は近くなる。



席、移動したいな。

そう思って店内を見渡すと、楽しそうに談笑するリョウと沙織の姿が目に入って、やりきれなさに目を伏せた。


「なんかいつもより化粧濃いめですよね?
いや、全然悪い意味じゃなくて。なんだろ、口紅の色かなぁ」

能天気に続く一方的な矢野くんの話を聞きながら、腕時計の中で回る秒針をぼんやりと見ていた。
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