キリと悪魔の千年回廊 (りお様/イラスト)
「知らないのか、ラグ」

ディジッタはおっくうそうに、
きれいになった長い髪の毛を軽く肩からはらった。

「風呂なんて庶民は誰も入っていないんだぞ」

「湯やバスタブは使えなくても、庶民も体は洗ってますよ」

キリの家を訪ねた晩のことを思い出しつつ、ラグナードは冷静に返した。


弟を無視して、

「名前は?」

と、ディジッタはキリにたずねた。

「キリです」

弟のことすら覚えていないような忘れっぽい人間に名乗る意味があるのかわからなかったが、キリは一応自分の名前を伝えた。

「キリ。よし、覚えた」

「うそをつけ」

ラグナードが半眼でつっこみを入れた。

「むむ。うそじゃない」

王女様は心外そうに腰に手を当てて、

「霧の魔法使いのキリだろ。わかりやすい」

と言った。


この名前をくれた昔の友だちの記憶がよみがえって、キリはほほえんだ。


「キリ、ぜひ見てもらいたいものがあるんだ。
ちょっとこっちに来てくれ」

ディジッタはそう言って、
本の山の向こうにかがみこんだ。


ジークフリートのことはまったく目に入っていない態度である。

翼が生えた人間のことを説明しなくてすむのは、ラグナードたちにとって都合が良かったが……

思わず、三人は顔を見合わせた。


「あの、姉上に宝物庫の中身について、お聞きしたいことがあるのですが……」

「あとだ、あと」


ディジッタは聞く耳を持たず、本の山から手だけ出してキリを手招きする。


「これはひょっとすると、黒のレイヴンなどにヴェズルングの杖を渡さなくてもすむかもしれない」


「えっ」


キリは急いで、そびえる本の峰の向こう側に回りこんだ。

ラグナードも、想定していなかった姉の言葉におどろいて、本の間をすりぬけて──


「これは……なんです?」


そこに広がっていた光景を目にして、立ちつくした。



シャンデリアの真下、


足の踏み場もないほどに部屋中に積み上げられた本の山はそこだけきれいによけられ、

広々とした平野のように、床が顔をのぞかせている。


絨毯がはがされて石の床がむき出しになったその上に、



複雑な図形が描かれていた。



魔法陣である。



「この形……」

キリが、
ぽつんとつぶやいて、床に木炭で描かれた模様をまじまじと見つめた。



「この本に書かれた召還を実行しようと魔法陣までは作ったんだが、どうにも魔法が発動しなくて困ってたんだ」


どこかで聞いたような話を口にして、
ディジッタは真っ黒な一冊の古ぼけた書物を開いてキリたちに見せた。



黒いページに

普通とはあべこべに、白い文字がびっしりと並んだ本だった。



「昔、宝物庫で見つけたんだが、ずっとただの真っ黒な本で何が書かれているか読めなかったんだ」

「姉上……」

「それが、一年前──パイロープに異変が起きた後で急に白い文字が現れてな。
誰が残した本だと思う? 聞いておどろくなよ、ヴェズルングだ」

「姉上……!」

「この本によるとだ、この方法で召還することで──」

「姉上!」



思わず声を上げたラグナードの横からジークフリートが顔を出し、

床をのぞきこんで「う!?」とうめき声をもらした。



「ロキの紋章──!?」

魔法陣の中心に描かれた印を凝視して、天の人はそう言った。



「そう! この魔法で召還すると、あの魔王ロキを手なずけることができると言うんだ」



「…………」



「残念ながら私の魔力と火の属性ではこの魔法は使えないのだが──霧の属性の魔法使いならば、ロキを召還することができるはず!」



絶句する三人にディジッタは力説して、モノクルの奥の瞳を輝かせてキリをとらえた。



「今夜キリがここを訪ねてきたのは運命だ。
ぜひ、この魔法を完成させてロキを呼び出してくれ」



ディジッタは胸を張ってラグナードをふり返り、



「魔王ロキの力を借りれば、パイロープも奪還できると思うんだ。
──どうだ?」



「『どうだ』って……」



暴走する姉を、ラグナードはこわばった顔で見下ろした。



「それは俺に軍司令官として、第一級国家反逆罪で姉上を捕まえろと、そう言ってるんですか……!」
< 232 / 263 >

この作品をシェア

pagetop