とある神官の話
9 君がいない





 男は、目を閉じる。目。確かに目を閉じているのだろうが、それは本当に目を閉じているのか男には曖昧だった。

 これが、自分?
 そもそも自分とは一体誰のことか。



 男はただただ、水のなかを漂うような心地を味わっていた。確かに体はそこにあるような気がするが、それもまた曖昧だった。

 私は誰だ。
 俺は誰だ。
 僕は誰だ。

 様々ななにかが、男に囁く。それは囁くといっても声とは限らなかった。声以外の、記憶のようなものも彼にいうのだ。
 お前は、誰だ。
 男はその問いに答えられなかった。自分が、どこの誰なのか思い出せない。
 男は、面倒になった。
 何者だろうが、なんだっていい。ここにはどうせ自分しかいない。そう思ったとき、男は記憶が降ってくるように流れてくる。やせっぽっちな少年。殴られて転がる少年は銀色だった。色白の肌にはいくつものあざがあった。ああ、あれはと男は思う。

 あれは、己だ。
 これは己の記憶だ。

 捨てられて。ああ、男が手をさしのばす。今日から息子だ。少年であった私は戸惑いながらも、必要とされることに安堵する。自分はいらない人ではない。必要としてくれる人がいる。ならば私はそれに答えなくては。期待を裏切らないようにしなくては。
 必死、だった。
 

 ―――馬鹿息子が。


 男はそこで自分が記憶のなかを、闇のなかをさ迷っていることに気づく。出してくれ!と叫ぶ。出してくれ。私を出してくれ。私は、私はこんなところにいる場合ではない。何故?何故ってそれは……。
 
 気がつくと、見慣れた光景があった。
 聖都だ。しかも宮殿のなかで、入口付近であろう。しかし誰もいない。静まりかえっている。自分しかいないかのように。

 孤独。
 私は、孤独だ。


 
 誰か……。
 男は無意識にそう、唇を震わせた。
 何がどうなってこうなったのか、男は思いだそうと必死になる。これは、普通じゃない。わかっている。だからこそここから脱出しなくては。






『もう、何してるんですか?』


 



 誰もいないはずの場所から、声がした。男は弾かれたように背後を振り返った。

 神官衣。黒髪。やや小柄。こちらをやや呆れたように見つめるのは、女性だった。女性は黙ったままの私に『そんなところに突っ立って』と笑う。
 どうしてだろう。
 私は戸惑う。気がつけば人の姿があり、行き来している。女性もまた始めからそこにいたかのように、存在している。







『……夢、か?』

『寝ぼけてるんですか?』




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