とある神官の話
……シエナ、さん。
苦痛に歪んだ彼女を見た。思わず名前を呟いたが―――「っ!」思いきり引っ張られた。息が詰まる。亡者から逃れて一瞬、頭が真っ白になったが、何とか咳き込みながら立った。
すぐ近くに、思いきり引っ張った犯人がいる。ハイネンだった。顔色がいささか悪いが縫い止められた腹はきれいに治っている。
「気持ちはわかります」
「……すみません」
ハイネンは責めることはしなかった。ただ、寂しげにいうだけ。
ハイネンが動いているとなると、とゼノンはアガレスの姿を発見する。彼の顔色はひどく悪いが、それを無理矢理無視して腕をふる。彼女は吹き飛ばされて後方に膝をついていた。
それと同じくして、水の檻が割れるのを見た。レオドーラとランジットが地面に転がり、咳き込むもののなんとか無事のようだ。
動揺したのだ。
あれは、涙だったから。
己の頬に触れても、それを感じることはできない。だが、間違いなく見た。
まさか、リシュターではないだろう。
ならば何故…?
後方にいる"シエナ"なのは守りの術が効いているから、大した傷はない。だが、よろめきながら立った彼女は、「どうして」と唇をふるわせる。
「誰が私を――――あの術を破ったというのだ!?」
「……術?」
高い女の声。立ち上がり、己の胸あたりなや指を突き立てるようにしている姿は、異様だった。
ハイネンも、そしてずぶ濡れ状態のレオドーラとランジット、アガレスは黙ったまま。ゼノンもまた状況が飲み込めず「ゼノン、貴方何かしたのですか」「いや…」そういうしかない。ゼノンはただ彼女に拘束されていただけである。
さっきから、なんだ。
ここにいる皆は、それぞれ黒い刃らの相手をしているだけ。とくに何かしたわけではないはず―――なら。
「まさか…マノが…?」
「マノ…?貴方が来たときに居た人ですか?」
「ええ…」
「マノ、だと?そいつは――――」
「死者だよ。喚ばれたらしい」
アガレスの表情がわずかに強ばるように見えたが、今はそれどころじゃない。話すかわからないが、説明はアガレスの近くにいるレオドーラに任せた。
横にいるハイネンが、居ない理由を聞きたいという顔をして居た。なので「時間を稼げといったきりでして」と簡潔に述べた。予想通り、ハイネンの顔には疑問。マノ、という人物は何者なのか、ゼノンはわからたいままである。
それより、と胸を押さえたままの"シエナ"は軽く腕をふる。また刃が出現。それから何の術なのか、回りに帯上の文字やら記号やらをまとわせた。
再び緊張感がよぎる。
「殺さずとも、拘束しようと思います。聖都であれば拘束しながら、侵入者を退場させられるかもしれない―――あの体はシエナのものです。弱いのはやはり、侵入者なはず」
「―――!」
静かにそう口に出したハイネンは、「それでも、どうなるかわかりませんが」と付け加えた。だが、それでもいい。可能性があるなら、と。
すでにアガレスにもその話は伝わっているらしい。
ならば、と多少傷つけても拘束する。
聖都に、帰ろう。ゼノンは構える。
「危険な者は足止めしたはず―――誰が」
「ぶつぶつ言ってるんじゃねーよ。あいつをとっとと返せよ。あいつは、お前にはやんねーし、俺のなんだからな!」
「俺の、じゃないでしょう。私のです!」
「うるせー!まだお前のじゃねーだろが!」
レオドーラの刃は、彼女にむけられていた。それでいい。
だが、"俺の"というのがひっかかった。
ゼノンはそこを譲るつもりはなかった。たとえ、そう、こんな場所であっても。
「……馬鹿二人、んなこといってる場合かよ」
ランジットの溜め息混じりの苦笑と、アガレスの無表情。それからハイネンのニヤニヤ顔――――いつもの調子が戻ってきたのではないか。
「――――帰りましょう、シエナさん」
いつもの調子が戻ったなかで、ゼノンはそう口に出した。
本人であっても、本人ではないというのはわかっている。だが、彼女は死んでいない。あの体の奥で、きっと無事なはずだ。そう思うのだ。あの涙も、きっと。
皆が彼女に注目していた。彼女はどう動くかわからない。さて、どう動く?
ゼノンの言葉に、"シエナ"は嘲笑う。