この空のした。〜君たちは確かに生きていた〜



 江戸に戻られた慶喜公は、恭順(※つつしんで従うこと)の意を表し、上野にある寛永寺に移り、謹慎なされました。


 容保さまは江戸会津藩邸に戻りましたが、上方に置き去りにしてきた藩兵を想い、心を痛めておりました。


 容保さまと家臣との間にできた溝を埋め、再び君臣一体になることを願いながら、
 側近で非戦論者である神保(じんぼ) 修理(しゅり)さまが、主君に代わって、容保さま東帰の責任を負い、切腹したといいます。


 神保さまの願いどおり、再び君臣一体となった我が藩ですが、未だかつてない窮地に立たされます。


 慶喜公が恭順の意向を示したため、江戸に向けて進攻を始めた薩長軍の矛先は、我が会津藩に集中したのです。


 そして仙台・米沢・秋田・南部藩に、会津追討令が下されました。


 主君容保さまが追われるように帰国の途についたのは、二月十六日のことです。


 江戸に詰めていた婦女子の方々や藩兵の皆さまもそれにならい、全員が故郷会津にお帰りになられたのは、もう三月も下旬になった頃のことでした。



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