猫 の 帰 る 城
たった十五秒間のCMが、永遠のように感じられた。
すでに信号は赤になっていて、僕は歩き出すことが出来なかった。
せわしく流れる人ごみの中で、ただ立ち尽くすしかない。
いつか、こんな日が来るかもしれないと、覚悟はしていたつもりだった。
しかしそれがやってくるのは、もっともっと先だと思っていた。
僕が彼女の毒素から抜け出し、目の前にその光景が現れても、笑ってやり過ごせる。
そんな日が来ればいいと思っていた。
「…嘘だろ」
僕は溢れ出す記憶を必死で押し殺した。
しかし彼女の姿を見ただけで、これまでひとつずつ崩してきたはずのものが、あっという間に甦り押し寄せてきた。
僕の身体を支配していく。
からだも、においも、ことばも。
滅茶苦茶になって、溢れて止まらない。
ああ、すべて無意味だったのだ。
熱を持つ身体の内側で、冷静な心が呟いた。
今まで僕のしてきたことは、いったい何だったのだろう。
せっせと積み上げてきたものは、いったい何だったのだろう。
すべて無意味だったのか。
このまま、解放されると思っていた。
いつか思い出さなくなって、あんな時期もあったと、思い出のひとつとして、僕の人生のひとつとして、色あせて綺麗な額縁に入れて、心の奥底にしまっておく。
そんな日に少しずつ近づいていると、僕は異常でも何でもないのだと、そうだと信じて疑わなかったのに。
それなのに、彼女の映像を見ただけで、こんなにも苦しい。
鎖はまったく解けてなどいなかったのだ。
僕は何も変わってなどいない。
安全な未来など掴めていない。
あの夏から進めぬまま。
こんなにも、がんじがらめに縛られたままだったのだ。
僕はまだ、小夜子を乗せて走り去るタクシーから目を離せずにいる。
一歩も踏み出せずにいる。
僕はまだ、小夜子のいる世界を生きているのだ。
その事実を突きつけられて、また、恐怖のような感情が沸き上がった。
このまま波に呑まれてしまえば、きっと心をさらって行かれる。
築きあげてきたものが、すべて崩壊すると確信したとき、頭の中で誰かが言った。
追い出せ
誰かが言った。