廓にて〜ある出征兵士と女郎の一夜〜
昭和十九年 師走
漢口
悟の耳には播磨の死は、知らされるはずもなかった。
播磨は、徴兵忌避の大罪人、非国民、国賊としてその死の事実を隠蔽された。戦意高揚を強いる日本の軍隊は同様の自殺が相次ぐことを怖れていたからだ。
昭和二十年の声を聞く頃には、飢えと日夜続く空襲で、民間人はもちろん軍隊の戦意も消沈しつつあった。
そんな暗い日々が続く十九年暮れ。
十二月十八日のことだった。
中国大陸の四川省成都という土地に兵力を増員して突貫工事の上に飛行場を作り上げた米軍は
B29の大編隊を漢口に向かわせた。実に84機とも言われる。
漢口には、日本軍の駐屯地が各所に存在し、悟が働くような日本人が経営する工場などもあった。
日本が侵略していたとはいえ、米軍の同盟国である中国の民間人もまだ現地には少なからず暮らしている。
にも関わらず、米軍は漢口を焼夷弾で火の海にした。
敵味方に関わらず爆撃し、この日一日で漢口は壊滅的な被害を受けた。