紫陽花ロマンス
だけど、面識はない。
彼の靴が地面を蹴り上げるたびに、水飛沫が勢いよく跳ね上がる。足元がびしょ濡れになっているのに、全然気にしていないらしい。
むしろ、今はそれどころではないといった様子。私に迫ってくる形相は、道を訊ねる時の顔とは明らかに違う。
あの切迫した表情は、本当に私に向けられたものなのだろうか。
もしかすると、誰かと間違えてる?
僅かな期待を込めて振り向いたけど、私の後ろには誰もいない。
視界に映るのは、相変わらず降り注ぐ無数の雨粒。人の姿を求めてみたけど、こんな雨の中にもはや人の姿はない。
ここには、私と目の前の男性の二人だけ。
ああ、そうか。
もしかすると、私の服にゴミか何かがくっ付いているのを教えてくれたのかもしれない。親切な人もいるんだな。
くるりと自分の服を見回した。
なんとなく、おかしいとは思いながら。
あんなに離れているのに、こんなに視界が悪いのに、どんなに大きなゴミがついていたら見えるというのだろう。
「本当に、すみません」
また、男性が呼び掛ける。
僅かに息を切らせて。