幻影都市の亡霊






 つんと、酒の匂いが立ち込める。薄汚れたという言葉では言い尽くせない、汚れに満ちた店だった。ゴミも散らかり放題で、もはや飲食店と呼んでいいものではなかった。そこにいる客も法に触れない仕事をしている者はいなさそうだ。
 ヨミは途方に暮れて、安い酒場で飲んでいた。そこにはもう、貴族のヨミ=グランブールは存在していなかった。どう考えても浮浪者にしか見えなかっただろう。店に、一人の男が入ってきた。ぴくん、とヨミは身体を震わせ、ちらりと目だけを男に向けた。そしてすぐに興味を失ったように自分の杯に目を戻した。だが、男の方はそんなヨミの動きを見逃さなかった。音を、気配を感じない動きでヨミの隣の席に座った。

「お前だな、フォゲティアを目指している若造は」
「……っ」

 ヨミは男を見た。顔に黒い布を巻いて、左眼と髪の毛しか出ていなかった。その眼は白濁した緑で――どこか優しい光をたたえていた。

「えらい汚れ様だ。その服、安くないだろうに……勿体無い」
「……服なんか、どうでもいい……棄てたいんだ……」

 ヨミは棄てたかった。何もかもを。己の肉体すら、命すら捧げても良いと思っていた。もう一度、彼女に会うためになら。

「棄てたい、か」

 そんなヨミを、男は哀切の瞳で見下ろしていた。

「行きたいか、フォゲティアへ。なりたいか、亡霊に――」
「な……に……?」
「俺がならせてやる、お前を亡霊に」

 男の言葉にヨミはぱっと顔を輝かせた。

「本当か? 本当に、貴方が?」

 身を乗り出して、ヨミは今までに忘れていた笑みというものを浮かべた。

「ついてこい」

 男に言われるがままにヨミは店を出た。出てすぐに男が右手を振りかざすと霧のようなものに包まれて、どこか違う場所へ出現していた。

「……?」

 そこには二人のほかには誰もいなかった。森のような場所だった。どこからか神造生物が雄たけびを上げ、魔造生物が奇声を発する。くねるような風が二人を包み込む。湖が見えた。水面を切るように魔造生物が泳いでいる。
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