掌編小説集
720.馬頭琴はフルボリュームで
管理人さんに鍵を貸してもらって訪れたとある廃ビルの屋上に、お供えの花束を持ってこの階段を上るのももう慣れたもので。
今日はおじさんの命日だから。
おじさんといっても私と血縁関係は無くて、幼い頃のお隣さんで幼馴染であるあなたの父親。
家族ぐるみの付き合いだったけれどそれはとても短い間のことで、何故なら今は私とあなたの二人だけになってしまったから。
私の両親が脇見運転の車との衝突事故の初披露で亡くなり、追い討ちをかけられるように私もその事故が原因で視力を失ってしまった。
持つべきものは泥仕合の憎しみではなく近接の法則で袖に縋ることでもなく、そのような立ち振る舞いにびた一文買い負けないように立ち居振る舞うこと。
あちらから会いに来るのを待つのではなくこちらからどんどん会いに行って、どこにも無いものを探し求めるよりもそこかしこに有るものを大切にする。
そう私を励ましつつ支えようとしてくれたナイスガイなおじさんは、私が円筒分水な児童養護施設に慣れた頃に殉職してしまった。
交番のお巡りさんから拳銃を強奪した人の事件を捜査していた時に、犯人と居合わせてしまった子供をその凶弾からおじさんが庇ったから。
救急車で病院に運ばれている途中で部下の人に看取られて、霊安室に通されたおばさんとあなたとその扉の前にある長椅子で待つ私。
背後から聞こえてくるおばさんの泣き声と一言も聞こえないあなたの声と、空間いっぱいに広がる消毒液の匂いとその隙間を縫うように漂う花火をした時のような臭い。
その臭いの方向からは誰かと誰かが話している声が聞こえてくるけれど、ケミカルウォッシュな仕上がりでなんて言っているかは分からなかった。
それぞれの半導体‐ペイント‐のエアブラシはちんぷんかんぷんでも、唸り声のような空気が毛羽立ちながら直火‐ロースト‐されて、付きっきりのネブライザーにてデプスまで届けられたのは理解出来た。
息子のあなたはそんなおじさんの背中に憧れて世界一安全な街にすると言って、おじさんと同じ警察官を目指し首席の伝道師として努力を重ねた。
その中で顔色が優れなかったおばさんは病気で亡くなってしまったけれど、今や所轄の署長になったあなたをおじさんもおばさんも誇りに思っていると思う。
もちろん私も思っている。
一方私はというと彼の店でピアニストとして働いている。
もちろんアマチュアだけれども「本職‐プロ‐みたい」と彼が言ってくれるから、本当でなくても飾り棚のバレンスはそうかもって思える。
彼と出会ったのは偶然だった。
児童養護施設にあったおもちゃのピアノを弾くのがお気に入りで、学校の合唱コンクールの時に先生から教えてもらって、幼稚園とか介護施設とか病院とかで時々弾かせてもらったりしている内に、ピアニストになりたいという夢がアラウザルに出来た。
けれどいくら好きでも音大に通える技術もお金も無いから手が出なくて、障害者が何人か採用されている団体の紹介でとあるバーへ面接に行けることになった。
その途中誰かとぶつかってしまって直ぐ様謝っても怒鳴られてしまったことは、仕方が無いというか日常茶飯事だから気にしないことにして。
けれど白杖が何かに引っ掛かってしまって取ろうとしたけれど取れなくて、降参したとしても白杖が無ければ面接どころか家にも帰れなくなって、どうしようもなくなってしまうからどうにかこうにかガシャガシャしていると。
「ちょっと待って。取るから動かさないで。はい、どうぞ。」
「ありがとうございます。・・あの、重ねて申し訳ないんですけど、この地図の場所に行きたいんです。方向感覚が狂ってしまったので、東西南北を教えていただけませんか?」
「・・・何しに行くんですか?」
「面接に。」
「ここは良くない噂がある。それに貴女は目が見えないですよね。この店は助成金目当てだ。・・ああ、いきなりこんなこと言われても信じられませんよね。俺も店経営していて、悪いことは言いませんからこの店は止めておいた方がいいです。」
「・・・ありがとうございます。でもこのお店は紹介してもらった上に、他に面接してくれそうなところは無くて。私ピアニストが夢で、それを叶えられるなら多少は。」
「・・・ピアノが弾けることが条件ですか?」
「はい。」
「分かりました。それなら俺の店で働きませんか?」
「え?」
「この店の条件より良いと自負していますし、今ピアノは無いので選び放題ですよ。」
彼はその足で店に連れていってくれて学校にも団体にも連絡をしてくれて、正式に採用になったらピアノまで私の好みに選ばせてくれた。
彼の店は思い描いていたよりもサバサバしていて温かくて優しくて、彼から好きだと言われた時は驚いたけれど嬉しかった。
幼馴染に彼を紹介したかったけれど家族の話はあまりしたくないらしく、店の人達に聞いてみたら父親が警察の偉い人っぽくて折り合いが悪く、警察の話をすると機嫌があまり良くなくなるらしい。
どうやったら幼馴染と彼が仲良く出来るか考えては良い案が思い付かなくて、それでも彼と居たかったからズルズルと先延ばしにしてしまう。
そんな折にある時から彼の様子が変わって何だか焦っているような雰囲気で、でも私には何も言わないどころかいつも通りを装ってくるから、私と居る時だけは安心出来るようにしようと思う。
ある日彼が帰って来た時纏っていた臭いはあの日の病院の記憶を蘇らせて、けれど縋るように性急に抱く彼に何か聞くことも何も言うことも止めた。
「これは?」
「君に似合いそうだったから。」
「指輪?」
「ああ。もし金に困ったらそれを売ればいいから。」
「貴方から貰ったものは売らないよ。」
「・・・そうか。」
腹鼓を打つ順風満帆な多幸感の成功者に成りすましたり、問題を一人で抱え込んで何でもないと偽ったり、出来る優秀で売れ行きは腹太鼓の完璧な経営者を演じたり。
そうするのは得意だけれども彼自身で居る時は嘘が付けない人で、付いたとしても不自然ですぐにバレて分かってしまうの、宝飾品一つでハラハラドキドキしている今みたいに。
儲かっている筈なのに豪遊する訳でも無く店の人達の艶出しばかりで、それでいて遊牧も落葉も問い直すことなく許してしまう。
フレットさえ結構不器用な彼の傍にいつもとは違う雰囲気の彼の傍に、陰ながら応援すると共に大トリの安息日になりたかった。
店の人達に聞けば海外セレブが身に付けたことから火が付いた人気のブランドで、その中でもかなりの高級品のようで売ればいいと言ったのは、言葉の綾でも何でもなく何年越しでもお金になる奉献。
しかもただの指輪ではなくどこからどう見ても婚約指輪のデザインだから、店の人達はその印稿に熱弁を振るって盛り上がっていたけれど、何も聞いていないしプロポーズとかそういった類ではなさそうに思える。
それでも売らないと言った私の言葉に嬉しそうな声色だったから、理由を話してくれなくても私からプロポーズしてみようかな。
彼が受けてくれたらその時はちゃんと幼馴染に紹介しよう。
彼が君には悪い事をしたと思っているなんて軽々しく一言で済ます筈も無いし、断定的に白であり黒では無いと確定するまでリザーブシートは全てグレーの状態。
警察の要らない街を目指している裾野が広い幼馴染ならば彼が何に悩んでいたとしても、ミクストメディアなフェアトレードできっと全力で解決しようとしてくれるから。
そんなことを考えながら階段を上りきって屋上に出られる扉を開けると、風がいつもより少し強かったけれどこれくらいは許容範囲。
「なんで・・・?」
「あれ?あなたも来ていたの?なんでって今日はおじさんの命日でしょ?でも鍵をもらった時、管理人さんは何も言っていなかったけれど。もしかして非常階段から来ちゃった?何回も鍵が壊されるって管理人さんが言っていたから、また壊れていたのかな?」
カンッ―――――――・・・
「確保っ!!!」
花を供えたら何か硬い物が落ちて地面に当たった音がしてその瞬間に風が止んで、聞いたことのある声とそれに続くたくさんの足音と、身体を縮こませた私を落ち着かせるようとするあなたの部下の声と、その奥からは今までには聞いたことがない語勢の彼の声。
駆け込み需要はとっかえっこなんて出来ずにF字孔で声遣いも増減して、最終審査後にもひずみが生まれるコンパートメント症候群。
小さい頃から自分の顔に泥を塗らない誰も彼もに自慢出来るだけのものを求められて、期待に応えてきたと思っていたけれど大学受験で失敗した時に、完全に見放されてその時のネクタイピンの逆光は忘れることはない。
そんな親父に反発する為逆らうっていうより壊す為に起こした事件は、バグった親父の地位を失墜させるのが目的だったからこそ、交番のお巡りから拳銃を取った時もスタンガンで気絶させただけ。
親父に見せ付けるだけのつもりでその拳銃で誰かを傷付けるつもりは無かったけれども、追っ手の警察官に追い掛けられていた中で威嚇するつもりで、けれど飛び出してきたガキに当たりそうになって、避けたつもりがガキを庇ったその警察官を撃っちまった。
事が大きくなって親父の知るところとなり失墜どころか権力フル活用で隠蔽させ、経済制裁どころか転地療養を吐き捨てて親父は出て行った。
今まで親父のことを軽蔑していたけれどつもりばかりの俺も結局のところ、同じ血が流れているんだとそうインナーマッスルごと実感すれば何もかもに失望して、渡された海外逃亡の資金を元手に夜の世界に身を投じた。
刮げた顔繋ぎから所謂高級キャバクラを経営することになったけれども、今まで接したことがない境遇の連中に囲まれて頼られていると、抜きつ抜かれつの店を守り連中を食わしていくことが目的となっていった。
そんな時に彼女に出会ったのは偶然だった。
真っ昼間から怒鳴り声が聞こえてうんざりとした気持ちで声のした方向を見れば、女性が放置自転車に引っ掛かった白い棒を取ろうとしていた。
しかし真っすぐ引き抜けばすぐ取れるのに何をしているんだと思ったけれども、白い棒が白杖だということに気付いて声を掛ければ、見慣れた街角での立ち読みが湯上りのカンアオイは特設にて鏡開き。
初めての一目惚れも偶然だ。
事情を知ればあの店に行かせたくないという思いより俺の手元に置いておきたくて、エントリーモデルのピアノさえ無いのに働かないかと言ってしまった。
きっと眉に唾をつけるように怪しさ満点だったにも関わらず彼女は俺を信じてくれて、店の信用度はある程度あるから学校にも団体にも俺が直接連絡を入れて、店の連中も華やかにはなるし珍重の至りと歓迎してくれた。
ピアノの腕もさることながら彼女のおっとりとした性格と雰囲気に人気が出て、そのごゆるりとした界隈で有名になっていって店の売り上げと共に、彼女へのアプローチも増えていくことに耐えきれなくて告白した。
彼女は驚いていたけれど嬉しいと言ってくれて同棲も了承してくれて、店の連中には俺の気持ちなどとっくの昔に見抜かれていたようで、夜の世界特有のローエンドモデルな揉め事に発展することもなく受け入れてくれた。
けれど鯛も一人はうまからずなそんな日は長く続く筈もなかった。
ある署が別の事件の捜査をしている中で関係者にあのガキが居たようで、俺の存在が浮上して違和感しかない俺の事件のことを嗅ぎ回っているらしい。
CAMが皆無の艀ではダクトは進めないから隠蔽の事実が明るみに出ないように、遊びは終わりだ店を畳んで今度こそ海外に行けと。
何十年ぶりに俺の前に現れた親父の言動は何一つ変わっていなくて、しかし何回年越ししても何一つ変わっていないのはきっと俺も同じだろう。
そうだ。
俺は、俺なんかが彼女の傍に居ちゃいけないんだ。
彼女と居る時だけは忘れられたんだ、何もかも忘れて彼女のことだけ考えられた。
でもそれじゃあいけない。
タンスに眠るように隠してもらうのも用水路の造立に逃げ出すのも違う。
親父の都合と俺の事情に彼女を巻き込まない為にも全て終わらせないと、と昔とは違って密造すら手に入れるのが容易くなった拳銃を手にする。
一人の警察官が俺に接触してきて必ず暴いて逮捕すると言ってきたものだから、そう願うと返したけれどもきっと親父の手先か何かで潰されるだろう。
ハイエンドモデルなこの人には申し訳ないけれども俺が親父と共に破滅する為には、いつになることやらとならない為にも必要な選択と決断だと言い聞かせて。
その刑事の背中に銃口を向け初めて自分の意思を持ってこの引き金を引いたけれども、重い銃弾と一緒に軽々何かまで出て逝って熄んでしまったみたいで。
その感覚はとても嫌なもので音も光景も過去も何もかも忘れたくて逃げるように帰れば、彼女が起きていたものだからそのまま抱いてしまったけれども、抱きすくめても衝動のままに抱き潰さなかったのは彼女だったからだろう。
普段の俺とは違っていた筈なのに彼女は何も聞かずに何かも言わずに居てくれて、その松風の心地良さがまた彼女から離れたくない理由の一つだ。
俺の精神安定剤、かけがえのない存在。
店の連中は伝手で何とかなるけれども彼女は視覚障害者でいくら腕が良いといっても、プロではなく俺の店でしか実績が無いアマチュアでは雇ってくれるかどうか。
雇ってくれたとしても守ってくれるとは限らないことが気掛かりでならないのは、彼女とこれから一生一緒に過ごせるなんて甘い夢はもう見られないから。
せめて俺が居なくなった後に金には少しでも困らないようにしたくて、出来るだけ高値で換金出来る人気ブランドを選りすぐって、その中でも彼女に殊更似合いそうなデザインの物を選び抜いた。
指輪という印にしたのは繋がっていたいという単なる独占欲の塊で、婚約指輪だったのはプロポーズしたかった俺の身勝手さから。
売ればいいと言った俺に俺からのものは売らないと大盛り上がりはしないけれど、当たり前の顔をしながら受け入れ言ってくれた彼女に、嬉しくなると共に肩の力が抜けて心底安心する。
俺の存在がそこに存在すると思えるから。
彼女に二度と会えなくなるけれども、彼女のその笑顔は最期の瞬間まで絶対に忘れないことを誓う。
秘密裏に根回しして店の連中の再就職先も全員分内密に決めて、彼女のことは伝手の中でも一番信頼出来る奴に頼んだから少しだけ安堵出来た。
これで心置きなくとは言えないけれど終わらせられると隠す気の無い拳銃を手に、あの時を再現するのは親父に対する意趣返しを含んでいる。
親父に逆らってまで寧ろ受けて立つと俺の捜査を続けてきた奴等は逆に頼もしく、お前達の為にも他に代えがたい凶悪犯にならなくちゃなと気合を入れる。
いよいよという時に屋上から中へ入れる扉が開き何故か彼女が花束を持って現れ、知り合いだったのか彼女の名前を呟いた警察官に対し、彼女は警察官が居たことに不思議そうにしながらも話し掛ける。
警察官の小さい呟きは聞こえて反応出来ても一触即発に微動だにせず声も発しなかった、俺の周りを取り囲んでいる大勢の警察官達の存在は、強く吹いている風の影響なのか彼女には分からないらしい。
白杖の音がコツコツと響かせながら転落防止用に金網があるとはいえ、パラペットに向かって一直線に向かう彼女から目が離せなくて、そして何より彼女がこの場に居ることに動揺してしまって。
しっかりと握って銃口を向けていた筈の拳銃は腕の力が抜けて手から落としてしまって、風が止んだところに音を立てたそれを見逃さないのも奴等が優秀なところで。
奮闘努力な良縁は整ったとしても堅守猛攻な縁談を調えたいと堅守する前に、勇往邁進な語調の一意専心で一瞬にして破談となった。
「離せっ!!」
俺が撃った警察官は俺への執念かはたまた警察官としての情熱か明瞭に通る声で、俺を抑え込もうと堅守速攻する警察官達の荒げられた声と、必死に抵抗する様を見せ付ける為に騒々しくする俺の声。
俺のせいで大きな音に晒されて驚かせているであろう彼女の方向を見れば、別の警察官に保護されて安全を確保出来ていてホッとした半面、アカデミックに都合良く現れた親父のせいか手錠すらされないまま。
「どこをどうしたら、お前みたいな出来損ないがわたしから産まれたのか。顔に泥を塗って自慢にもならず、期待にも満足に応えられない。使い物にならないのはあいつの育て方が悪かったと思っていたが、救いようがないのは元々だったようだな。艱難辛苦で致命症に究極の二択をしてきたわたしの功績は計り知れないのに。お前はいつも勝手なことばかりしてわたしの邪魔立てをするな。」
「あんたが俺の罪を庇うように隠したのは自分の地位を守る為だろ。そんな外地を恩に着るなんて思う訳がない。俺を守る為だなんて家族愛をちらつかせたとしても、そんなものは無意味だ。」
「家族愛など主張するつもりはない。お前とは金輪際縁を切る。二度と顔を見せるな。」
「言われなくてもそのつもりだから安心しろよ。あんたなんてこっちから願い下げだ。」
俺の為にと産気づかせてわたしに意見するなんて俺らしくないと束縛しながら、猊下である自分の思い通りの道を進ませることが何よりも正しく。
一周目である俺の人生の主人公は英霊として押し切る親父の二周目であり、緊急通報装置など実在しない学歴社会に通ずる権力社会での代用品。
意に沿わない過程や結果は許し難くスペアキーとしてを守る為のただならぬ嘘に、俺以外も傷付くことが理解出来ないし分かろうともしない。
ファイバースコープ並みの慰労会を先程はどうもという間隔で開き、祠‐ライブビューイング‐を巡るように功績を称えまくられて、織機(しょっき)の手間賃が万馬券ぐらいじゃ到底足りはしない。
親父の最初の被害者は投宿でも目覚まし時計が欠かせなかったお袋だろうな。
「そういえば、お前はなにやら盲人と付き合っているらしいな。最初から負けの人生なんて嘆かわしいことこの上ない。お前に負けず劣らず、人様に迷惑を掛けて生きるしかないっていうのは何とも罪深い。」
「なんだと?」
これだけ部下や関係者が居るのに余程この状況が気に食わないのかいつも通りの態度で、まあいつものことだから今更事を荒立てる必要も無いと思っていたら。
どこでどう知ったのか分からないけれどもまあどうせ部下にでも素行調査させたんだろうけれど、その道の物事に明るい彼女のことまでコケにする言葉を口にし始めた。
「ああ、何も出来ない無能で役立たずのお前にはお似合いか。」
「用があるのは俺だろ。彼女は関係ないし彼女は俺を見てくれた。他ならぬ俺自身を。彼女はあんたとは違う。あんたなんか彼女の足元にも及ばない。」
「度し難いお前を見るなどとは。目が見えないくせに一体何が出来るというんだ。身の程知らずで片腹痛いにもほどがある。」
「っ・・・―――!!!彼女を侮辱するな!俺のことはもういい、何とでも言え。でも彼女には謝れ!彼女には、彼女だけはっ!!!」
フンと鼻を鳴らす親父の胸倉を掴んでやかましさなど構ってられないから一蹴にして、彼女を蔑視されるのは我慢ならなくて無我夢中で怒鳴りながら叫べば、さすがに止めに入った部下達が引き離しにかかり掴む力が弱くなったところで、親父は俺を思いっきり地面へ叩きつけるように投げ飛ばした。
俺もろともに巻き込まれた部下達はよろめいた程度のようだが、俺はザザッと音がするぐらいに勢い良く硬いコンクリートの上を滑降した形になって、受け身を取ろうとした手が少し痛むから擦り傷ぐらいは出来ているだろう。
「薄汚い手でわたしに触るな。」
乱れたスーツの襟を直しながら言い捨てる親父にもはや言い返す気も起きず、立ち上がる気力も無く尻もちをついたような体勢で座り込む。
「こちらです。」
彼女が彼女を保護していた警察官と共に近付いてくる。
「12時の方向、真下に座り込んでいます。」
「あっ・・・」
座り込んでいると言われた彼女が俺に向かっていつものように手を伸ばすから、手を取ってしゃがみ込もうとする彼女を誘導する。
「あんなに大きな声も出せるんだね。初めて聞いた。私がびっくりするから、普段は出さないように気を付けてくれているでしょ。」
「ぇ?あぁ・・・ごめん、驚かせて。」
「ううん、もう大丈夫。」
彼女のゆったりとしたほんわかな雰囲気と温かい手に包み込まれて、底冷えして冷え切った身体と心にじんわりと温かさが染み渡る。
皮がめくれているのが目に入ったけれども見た目ほどには感じず、寧ろスーッと痛みが引いていく感覚がするのも彼女のお陰だ。
「さっきね、全部聞いた。」
「!!・・・そうか。」
二度と会わずに終わらせることも出来なかった。
それなのにもう一度会えて嬉しいと思う俺はなんて自分勝手なんだろうか。
「俺は君の傍に居ちゃいけない。親父の言う通り俺は出来損ないだ。認められたくて認められなくてムシャクシャして。事件を起こして隠されて。何も変わらないどころかますます惨めになるだけで。親父には遊びだって言われたけれど、店は結構本気で。まあでももう人手に渡したけど。心配しなくても全員分の再就職の手配は済んでいるから。店、移ってもらうことにはなるけれど。俺に言われても困ると思うけど信頼出来るところだから。」
大切な思い出を汚(けが)したのは俺だ。
「罪を償うなんて真っ当なこと俺には出来ないだろうから、凶悪犯ってことで終わらせたかったんだけどな。それも上手くいかなかった。呆れてものも言えないよな。こんなことすら出来ないんだよな、俺ってやつは。」
彼女と出会ったのも付き合えたのもこの場に居たのも想定外。
「こんな俺に付き合ってくれて。・・いや、付き合わせてごめん。悪かった。これからはもう何も煩わされることもなくなるから安心していい。」
彼女に嫌われて憎まれて恨まれるまでが想定内。
それで構わないしそれが当然。
それでも握っているこの手を離したくない。
「これ。」
一言も口を挟まなかった彼女がショルダーバッグから取り出したのは俺がプレゼントした指輪で、俺なんかからの物は金目のものであってもいらないということだろう。
「つけて。」
「え?」
差し出されたリングケースを受け取れば、彼女は代わりに手の甲を上にして左手を差し出した。
「店の人達に聞いたらデザインは婚約指輪のものだって。色とか形とか雰囲気とか、いつも事細かに伝えてくれるのに変だなと思っていたんだけど。言いたくなかった?」
「そんなことは・・・」
言いたくないわけがない。
そう即座に否定したかったけれど彼女に俺の影がこれ以上あってはならない。
「指輪渡しておいてプロポーズもせずに売ればいいなんて勝手な人。そんな勝手な人だとは思わなかった。こんな一方的に言われて私が納得するとでも思っているの?」
言い淀んだ俺に彼女は差し出したままだった左手で袖を引く。
突き放すような言葉なのに責められているように感じないのは何故だろうか。
「花火をした時のようなあの臭いは拳銃の火薬だったんだね。あの日も帰ってきてくれたのに、今日でもう戻ってくる気はなかったの?」
「それは・・・」
そうだけれどもそうだと言い切りたくなかった。
不自然さに気付かれていたことは確定したけれど、言ってしまったら俺の中で終(つい)ぞ終わってしまう気がして。
だから話を俺から事件へと逸らす。
「おじさん・・と知り合いだったんだな。命日に花を供えに来るぐらい親しかった人を俺は死なせてしまった。さっき話し掛けていた警察官も知り合いだろう?だったら俺が撃った人も知り合いなんだろうな。」
「・・うん。話していたのは署長をしている幼馴染で、おじさんは幼馴染のお父さんで、撃たれた人は幼馴染の部下の人だよ。貴方を紹介したかったんだけど家族の話あまりしたくないみたいだったから、どうしたらいいかなってずっと考えていたの。あの日の少し前から、貴方の様子がおかしいことには気が付いていたけれど。尋ねるより貴方と居たくて欲張ってしまったから、大事(おおごと)になって迷惑を掛けてしまった。言えなくてごめんね。」
「いや謝るのは俺の方だから。君は何も悪くない。ごめん、俺のせいで色々悩ませて。たくさん傷付けてごめん。」
謝って済むようなことではないしそもそも謝りもしないで居なくなろうとしていたのだから、こんな簡素な謝罪の言葉では今更虫が良すぎるし彼女の言う通り勝手過ぎる。
「私は謝って欲しいわけじゃないし、悩んだのも傷付いたのも私だけじゃない。幼馴染達警察は罪を犯してしまった人を責めて罰したいから、捜査したり逮捕したりするわけじゃない。犯した罪と向き合って償い続けられるようにするためだから。」
不幸だと思ったことがないということそれはイコール幸せなことだといえるのか、という深層心理への敵対的刺激に一本取られたということなのだろうか。
言ったら信じてくれたのかと問わなくても最初の頭出しから信じて、それを証明する為に奔走してくれるだろうということが、アカデミーのような彼女の口振りから感じることが出来る。
酷なことをしたのに捨てたもんじゃないなと思えてくるのもやはり彼女のお陰だ。
だから。
「分かった。どうやったら償い続けられるか考え続けるよ。」
「うん、良かった。戻って来てくれる気になって。私待っているから。・・改めてつけてくれる?」
「え?」
彼女は先程と同じ様に手の甲を上にして左手を差し出す。
「・・・いや、それは、俺がつけるべきじゃない。」
「どうして?」
「ど、どうしてって・・・俺は犯罪者だ。君の幼馴染や知り合いの人達は警察の人間だろう。親父が気にしたように立場に影響があるから。」
「立場を気にするようなら貴方の捜査はしないんじゃない?」
「そう・・・かも、しれないけど・・・いや、でも・・・」
彼女が嫌いなわけじゃない。
彼女が好きだ、誰よりも愛している。
彼女にとって俺の存在が悪くはあっても良くないのは頭では分かっているけれど、俺から別れすら切り出せないのは情けないどころか卑怯だ。
「貴方が他に何を迷っているのか分からないけれど、私が幸せになるのに誰も反対なんてしないし、私は何があっても貴方と別れるつもりなんて無いよ。貴方がプロポーズしてくれないなら私からしようかなと思っただけで。婚約指輪なんて渡してその気にさせておいて、そんな勝手は私納得出来ないって言ったよね。」
寄り添ってくれている言葉なのに責められているように感じるのは何故だろうか。
俺の起こした事件より俺がプロポーズをしなかったことに怒っているような気がして、そんじょそこらの比ではないくらい凄みが静かに増している気もする。
というか基本的におっとりとした性格で押しが強いことを吹き込まれても、視覚障害者ということで親父みたいな奴に蔑まれたりしても、その走者の打開策の出方はいつも笑顔で流す凄技の走法なのに。
視線が噛み合っていないのにも関わらず途轍もない圧を感じて、こんなにも怒っている彼女は初めてではないだろうか。
原因が本当に俺がプロポーズをしなかったことだったとしたら、発色の良いハイトーンでそんな嬉しいことは無いけれど、彼女のこの手を取ることはきっと俺のためにしかならない。
「分かった。幼馴染達と縁を切るわ。」
「・・・は?」
「そうすれば貴方と居られるってことでしょう?」
彼女の手を取ることもなく開いたり閉じたりしていた拳を握り締めたまま、彼女が名案だとでも言うようにとんでもないことを言い出してしまった。
幼馴染をはじめ成り行きを見守っていた彼女以外の人間が驚きを隠せないし、彼女が何をそこまで拘っているのかが分からない。
「君が縁を切る必要は」
「出来損ないと思っているならそれでもいい。」
差し出されていた左手はゆっくりと伸ばされて俺の頬にそっと触れる。
「私は貴方が良い。」
強張った表情も固まった身体も力が抜けていくように解けていく。
頬に触れる君の手の上に俺の震える手を繋ぐような気持ちで重ねる。
「君が好き、君を愛している。」
涙が溢れてぐすっと鼻をすすって全身が情けなくなっているのは分かっている。
けれど彼女に伝えたい。
俺の気持ち。
言えなかった伝えたかった気持ち。
「君と結婚したい。俺と、結婚してください。」
ここのところ合わせられなかった視線が噛み合った気がする。
「はい。よろしくお願いします。」
嬉しそうに彼女が笑ってくれてそれを見て俺も笑う。
まだ笑うことが出来る。
「おかえりなさい、でいいんだよね?」
「うん。ただいま。」
離れるのが少し寂しくてまた会えるのが凄く楽しみになるのは。
俺の存在も俺の居場所も俺が戻りたいのも俺が戻って来るのも。
総て彼女だ。
渡されて持ったままだったリングケースから指輪を取り出して、彼女の左手を取って薬指につける。
これで名実一体に正真正銘の婚約指輪になってくれた。
「似合う?」
「うん・・・、とっても似合う。」
自慢するように見せびらかすように婚約指輪をつけた手を俺や幼馴染達に向ける。
彼女が笑って俺が笑って幼馴染達も仕方がなさそうに笑って。
止めようがないこの気持ちはもう止めなくていい。
笑いあえるなら、まだ大丈夫。
いや、もう大丈夫。
幼馴染にきちんと手錠を掛けてもらって、彼女と俺自身で厳に生きていく。
「いってきます。」
「いってらっしゃい。」
今日はおじさんの命日だから。
おじさんといっても私と血縁関係は無くて、幼い頃のお隣さんで幼馴染であるあなたの父親。
家族ぐるみの付き合いだったけれどそれはとても短い間のことで、何故なら今は私とあなたの二人だけになってしまったから。
私の両親が脇見運転の車との衝突事故の初披露で亡くなり、追い討ちをかけられるように私もその事故が原因で視力を失ってしまった。
持つべきものは泥仕合の憎しみではなく近接の法則で袖に縋ることでもなく、そのような立ち振る舞いにびた一文買い負けないように立ち居振る舞うこと。
あちらから会いに来るのを待つのではなくこちらからどんどん会いに行って、どこにも無いものを探し求めるよりもそこかしこに有るものを大切にする。
そう私を励ましつつ支えようとしてくれたナイスガイなおじさんは、私が円筒分水な児童養護施設に慣れた頃に殉職してしまった。
交番のお巡りさんから拳銃を強奪した人の事件を捜査していた時に、犯人と居合わせてしまった子供をその凶弾からおじさんが庇ったから。
救急車で病院に運ばれている途中で部下の人に看取られて、霊安室に通されたおばさんとあなたとその扉の前にある長椅子で待つ私。
背後から聞こえてくるおばさんの泣き声と一言も聞こえないあなたの声と、空間いっぱいに広がる消毒液の匂いとその隙間を縫うように漂う花火をした時のような臭い。
その臭いの方向からは誰かと誰かが話している声が聞こえてくるけれど、ケミカルウォッシュな仕上がりでなんて言っているかは分からなかった。
それぞれの半導体‐ペイント‐のエアブラシはちんぷんかんぷんでも、唸り声のような空気が毛羽立ちながら直火‐ロースト‐されて、付きっきりのネブライザーにてデプスまで届けられたのは理解出来た。
息子のあなたはそんなおじさんの背中に憧れて世界一安全な街にすると言って、おじさんと同じ警察官を目指し首席の伝道師として努力を重ねた。
その中で顔色が優れなかったおばさんは病気で亡くなってしまったけれど、今や所轄の署長になったあなたをおじさんもおばさんも誇りに思っていると思う。
もちろん私も思っている。
一方私はというと彼の店でピアニストとして働いている。
もちろんアマチュアだけれども「本職‐プロ‐みたい」と彼が言ってくれるから、本当でなくても飾り棚のバレンスはそうかもって思える。
彼と出会ったのは偶然だった。
児童養護施設にあったおもちゃのピアノを弾くのがお気に入りで、学校の合唱コンクールの時に先生から教えてもらって、幼稚園とか介護施設とか病院とかで時々弾かせてもらったりしている内に、ピアニストになりたいという夢がアラウザルに出来た。
けれどいくら好きでも音大に通える技術もお金も無いから手が出なくて、障害者が何人か採用されている団体の紹介でとあるバーへ面接に行けることになった。
その途中誰かとぶつかってしまって直ぐ様謝っても怒鳴られてしまったことは、仕方が無いというか日常茶飯事だから気にしないことにして。
けれど白杖が何かに引っ掛かってしまって取ろうとしたけれど取れなくて、降参したとしても白杖が無ければ面接どころか家にも帰れなくなって、どうしようもなくなってしまうからどうにかこうにかガシャガシャしていると。
「ちょっと待って。取るから動かさないで。はい、どうぞ。」
「ありがとうございます。・・あの、重ねて申し訳ないんですけど、この地図の場所に行きたいんです。方向感覚が狂ってしまったので、東西南北を教えていただけませんか?」
「・・・何しに行くんですか?」
「面接に。」
「ここは良くない噂がある。それに貴女は目が見えないですよね。この店は助成金目当てだ。・・ああ、いきなりこんなこと言われても信じられませんよね。俺も店経営していて、悪いことは言いませんからこの店は止めておいた方がいいです。」
「・・・ありがとうございます。でもこのお店は紹介してもらった上に、他に面接してくれそうなところは無くて。私ピアニストが夢で、それを叶えられるなら多少は。」
「・・・ピアノが弾けることが条件ですか?」
「はい。」
「分かりました。それなら俺の店で働きませんか?」
「え?」
「この店の条件より良いと自負していますし、今ピアノは無いので選び放題ですよ。」
彼はその足で店に連れていってくれて学校にも団体にも連絡をしてくれて、正式に採用になったらピアノまで私の好みに選ばせてくれた。
彼の店は思い描いていたよりもサバサバしていて温かくて優しくて、彼から好きだと言われた時は驚いたけれど嬉しかった。
幼馴染に彼を紹介したかったけれど家族の話はあまりしたくないらしく、店の人達に聞いてみたら父親が警察の偉い人っぽくて折り合いが悪く、警察の話をすると機嫌があまり良くなくなるらしい。
どうやったら幼馴染と彼が仲良く出来るか考えては良い案が思い付かなくて、それでも彼と居たかったからズルズルと先延ばしにしてしまう。
そんな折にある時から彼の様子が変わって何だか焦っているような雰囲気で、でも私には何も言わないどころかいつも通りを装ってくるから、私と居る時だけは安心出来るようにしようと思う。
ある日彼が帰って来た時纏っていた臭いはあの日の病院の記憶を蘇らせて、けれど縋るように性急に抱く彼に何か聞くことも何も言うことも止めた。
「これは?」
「君に似合いそうだったから。」
「指輪?」
「ああ。もし金に困ったらそれを売ればいいから。」
「貴方から貰ったものは売らないよ。」
「・・・そうか。」
腹鼓を打つ順風満帆な多幸感の成功者に成りすましたり、問題を一人で抱え込んで何でもないと偽ったり、出来る優秀で売れ行きは腹太鼓の完璧な経営者を演じたり。
そうするのは得意だけれども彼自身で居る時は嘘が付けない人で、付いたとしても不自然ですぐにバレて分かってしまうの、宝飾品一つでハラハラドキドキしている今みたいに。
儲かっている筈なのに豪遊する訳でも無く店の人達の艶出しばかりで、それでいて遊牧も落葉も問い直すことなく許してしまう。
フレットさえ結構不器用な彼の傍にいつもとは違う雰囲気の彼の傍に、陰ながら応援すると共に大トリの安息日になりたかった。
店の人達に聞けば海外セレブが身に付けたことから火が付いた人気のブランドで、その中でもかなりの高級品のようで売ればいいと言ったのは、言葉の綾でも何でもなく何年越しでもお金になる奉献。
しかもただの指輪ではなくどこからどう見ても婚約指輪のデザインだから、店の人達はその印稿に熱弁を振るって盛り上がっていたけれど、何も聞いていないしプロポーズとかそういった類ではなさそうに思える。
それでも売らないと言った私の言葉に嬉しそうな声色だったから、理由を話してくれなくても私からプロポーズしてみようかな。
彼が受けてくれたらその時はちゃんと幼馴染に紹介しよう。
彼が君には悪い事をしたと思っているなんて軽々しく一言で済ます筈も無いし、断定的に白であり黒では無いと確定するまでリザーブシートは全てグレーの状態。
警察の要らない街を目指している裾野が広い幼馴染ならば彼が何に悩んでいたとしても、ミクストメディアなフェアトレードできっと全力で解決しようとしてくれるから。
そんなことを考えながら階段を上りきって屋上に出られる扉を開けると、風がいつもより少し強かったけれどこれくらいは許容範囲。
「なんで・・・?」
「あれ?あなたも来ていたの?なんでって今日はおじさんの命日でしょ?でも鍵をもらった時、管理人さんは何も言っていなかったけれど。もしかして非常階段から来ちゃった?何回も鍵が壊されるって管理人さんが言っていたから、また壊れていたのかな?」
カンッ―――――――・・・
「確保っ!!!」
花を供えたら何か硬い物が落ちて地面に当たった音がしてその瞬間に風が止んで、聞いたことのある声とそれに続くたくさんの足音と、身体を縮こませた私を落ち着かせるようとするあなたの部下の声と、その奥からは今までには聞いたことがない語勢の彼の声。
駆け込み需要はとっかえっこなんて出来ずにF字孔で声遣いも増減して、最終審査後にもひずみが生まれるコンパートメント症候群。
小さい頃から自分の顔に泥を塗らない誰も彼もに自慢出来るだけのものを求められて、期待に応えてきたと思っていたけれど大学受験で失敗した時に、完全に見放されてその時のネクタイピンの逆光は忘れることはない。
そんな親父に反発する為逆らうっていうより壊す為に起こした事件は、バグった親父の地位を失墜させるのが目的だったからこそ、交番のお巡りから拳銃を取った時もスタンガンで気絶させただけ。
親父に見せ付けるだけのつもりでその拳銃で誰かを傷付けるつもりは無かったけれども、追っ手の警察官に追い掛けられていた中で威嚇するつもりで、けれど飛び出してきたガキに当たりそうになって、避けたつもりがガキを庇ったその警察官を撃っちまった。
事が大きくなって親父の知るところとなり失墜どころか権力フル活用で隠蔽させ、経済制裁どころか転地療養を吐き捨てて親父は出て行った。
今まで親父のことを軽蔑していたけれどつもりばかりの俺も結局のところ、同じ血が流れているんだとそうインナーマッスルごと実感すれば何もかもに失望して、渡された海外逃亡の資金を元手に夜の世界に身を投じた。
刮げた顔繋ぎから所謂高級キャバクラを経営することになったけれども、今まで接したことがない境遇の連中に囲まれて頼られていると、抜きつ抜かれつの店を守り連中を食わしていくことが目的となっていった。
そんな時に彼女に出会ったのは偶然だった。
真っ昼間から怒鳴り声が聞こえてうんざりとした気持ちで声のした方向を見れば、女性が放置自転車に引っ掛かった白い棒を取ろうとしていた。
しかし真っすぐ引き抜けばすぐ取れるのに何をしているんだと思ったけれども、白い棒が白杖だということに気付いて声を掛ければ、見慣れた街角での立ち読みが湯上りのカンアオイは特設にて鏡開き。
初めての一目惚れも偶然だ。
事情を知ればあの店に行かせたくないという思いより俺の手元に置いておきたくて、エントリーモデルのピアノさえ無いのに働かないかと言ってしまった。
きっと眉に唾をつけるように怪しさ満点だったにも関わらず彼女は俺を信じてくれて、店の信用度はある程度あるから学校にも団体にも俺が直接連絡を入れて、店の連中も華やかにはなるし珍重の至りと歓迎してくれた。
ピアノの腕もさることながら彼女のおっとりとした性格と雰囲気に人気が出て、そのごゆるりとした界隈で有名になっていって店の売り上げと共に、彼女へのアプローチも増えていくことに耐えきれなくて告白した。
彼女は驚いていたけれど嬉しいと言ってくれて同棲も了承してくれて、店の連中には俺の気持ちなどとっくの昔に見抜かれていたようで、夜の世界特有のローエンドモデルな揉め事に発展することもなく受け入れてくれた。
けれど鯛も一人はうまからずなそんな日は長く続く筈もなかった。
ある署が別の事件の捜査をしている中で関係者にあのガキが居たようで、俺の存在が浮上して違和感しかない俺の事件のことを嗅ぎ回っているらしい。
CAMが皆無の艀ではダクトは進めないから隠蔽の事実が明るみに出ないように、遊びは終わりだ店を畳んで今度こそ海外に行けと。
何十年ぶりに俺の前に現れた親父の言動は何一つ変わっていなくて、しかし何回年越ししても何一つ変わっていないのはきっと俺も同じだろう。
そうだ。
俺は、俺なんかが彼女の傍に居ちゃいけないんだ。
彼女と居る時だけは忘れられたんだ、何もかも忘れて彼女のことだけ考えられた。
でもそれじゃあいけない。
タンスに眠るように隠してもらうのも用水路の造立に逃げ出すのも違う。
親父の都合と俺の事情に彼女を巻き込まない為にも全て終わらせないと、と昔とは違って密造すら手に入れるのが容易くなった拳銃を手にする。
一人の警察官が俺に接触してきて必ず暴いて逮捕すると言ってきたものだから、そう願うと返したけれどもきっと親父の手先か何かで潰されるだろう。
ハイエンドモデルなこの人には申し訳ないけれども俺が親父と共に破滅する為には、いつになることやらとならない為にも必要な選択と決断だと言い聞かせて。
その刑事の背中に銃口を向け初めて自分の意思を持ってこの引き金を引いたけれども、重い銃弾と一緒に軽々何かまで出て逝って熄んでしまったみたいで。
その感覚はとても嫌なもので音も光景も過去も何もかも忘れたくて逃げるように帰れば、彼女が起きていたものだからそのまま抱いてしまったけれども、抱きすくめても衝動のままに抱き潰さなかったのは彼女だったからだろう。
普段の俺とは違っていた筈なのに彼女は何も聞かずに何かも言わずに居てくれて、その松風の心地良さがまた彼女から離れたくない理由の一つだ。
俺の精神安定剤、かけがえのない存在。
店の連中は伝手で何とかなるけれども彼女は視覚障害者でいくら腕が良いといっても、プロではなく俺の店でしか実績が無いアマチュアでは雇ってくれるかどうか。
雇ってくれたとしても守ってくれるとは限らないことが気掛かりでならないのは、彼女とこれから一生一緒に過ごせるなんて甘い夢はもう見られないから。
せめて俺が居なくなった後に金には少しでも困らないようにしたくて、出来るだけ高値で換金出来る人気ブランドを選りすぐって、その中でも彼女に殊更似合いそうなデザインの物を選び抜いた。
指輪という印にしたのは繋がっていたいという単なる独占欲の塊で、婚約指輪だったのはプロポーズしたかった俺の身勝手さから。
売ればいいと言った俺に俺からのものは売らないと大盛り上がりはしないけれど、当たり前の顔をしながら受け入れ言ってくれた彼女に、嬉しくなると共に肩の力が抜けて心底安心する。
俺の存在がそこに存在すると思えるから。
彼女に二度と会えなくなるけれども、彼女のその笑顔は最期の瞬間まで絶対に忘れないことを誓う。
秘密裏に根回しして店の連中の再就職先も全員分内密に決めて、彼女のことは伝手の中でも一番信頼出来る奴に頼んだから少しだけ安堵出来た。
これで心置きなくとは言えないけれど終わらせられると隠す気の無い拳銃を手に、あの時を再現するのは親父に対する意趣返しを含んでいる。
親父に逆らってまで寧ろ受けて立つと俺の捜査を続けてきた奴等は逆に頼もしく、お前達の為にも他に代えがたい凶悪犯にならなくちゃなと気合を入れる。
いよいよという時に屋上から中へ入れる扉が開き何故か彼女が花束を持って現れ、知り合いだったのか彼女の名前を呟いた警察官に対し、彼女は警察官が居たことに不思議そうにしながらも話し掛ける。
警察官の小さい呟きは聞こえて反応出来ても一触即発に微動だにせず声も発しなかった、俺の周りを取り囲んでいる大勢の警察官達の存在は、強く吹いている風の影響なのか彼女には分からないらしい。
白杖の音がコツコツと響かせながら転落防止用に金網があるとはいえ、パラペットに向かって一直線に向かう彼女から目が離せなくて、そして何より彼女がこの場に居ることに動揺してしまって。
しっかりと握って銃口を向けていた筈の拳銃は腕の力が抜けて手から落としてしまって、風が止んだところに音を立てたそれを見逃さないのも奴等が優秀なところで。
奮闘努力な良縁は整ったとしても堅守猛攻な縁談を調えたいと堅守する前に、勇往邁進な語調の一意専心で一瞬にして破談となった。
「離せっ!!」
俺が撃った警察官は俺への執念かはたまた警察官としての情熱か明瞭に通る声で、俺を抑え込もうと堅守速攻する警察官達の荒げられた声と、必死に抵抗する様を見せ付ける為に騒々しくする俺の声。
俺のせいで大きな音に晒されて驚かせているであろう彼女の方向を見れば、別の警察官に保護されて安全を確保出来ていてホッとした半面、アカデミックに都合良く現れた親父のせいか手錠すらされないまま。
「どこをどうしたら、お前みたいな出来損ないがわたしから産まれたのか。顔に泥を塗って自慢にもならず、期待にも満足に応えられない。使い物にならないのはあいつの育て方が悪かったと思っていたが、救いようがないのは元々だったようだな。艱難辛苦で致命症に究極の二択をしてきたわたしの功績は計り知れないのに。お前はいつも勝手なことばかりしてわたしの邪魔立てをするな。」
「あんたが俺の罪を庇うように隠したのは自分の地位を守る為だろ。そんな外地を恩に着るなんて思う訳がない。俺を守る為だなんて家族愛をちらつかせたとしても、そんなものは無意味だ。」
「家族愛など主張するつもりはない。お前とは金輪際縁を切る。二度と顔を見せるな。」
「言われなくてもそのつもりだから安心しろよ。あんたなんてこっちから願い下げだ。」
俺の為にと産気づかせてわたしに意見するなんて俺らしくないと束縛しながら、猊下である自分の思い通りの道を進ませることが何よりも正しく。
一周目である俺の人生の主人公は英霊として押し切る親父の二周目であり、緊急通報装置など実在しない学歴社会に通ずる権力社会での代用品。
意に沿わない過程や結果は許し難くスペアキーとしてを守る為のただならぬ嘘に、俺以外も傷付くことが理解出来ないし分かろうともしない。
ファイバースコープ並みの慰労会を先程はどうもという間隔で開き、祠‐ライブビューイング‐を巡るように功績を称えまくられて、織機(しょっき)の手間賃が万馬券ぐらいじゃ到底足りはしない。
親父の最初の被害者は投宿でも目覚まし時計が欠かせなかったお袋だろうな。
「そういえば、お前はなにやら盲人と付き合っているらしいな。最初から負けの人生なんて嘆かわしいことこの上ない。お前に負けず劣らず、人様に迷惑を掛けて生きるしかないっていうのは何とも罪深い。」
「なんだと?」
これだけ部下や関係者が居るのに余程この状況が気に食わないのかいつも通りの態度で、まあいつものことだから今更事を荒立てる必要も無いと思っていたら。
どこでどう知ったのか分からないけれどもまあどうせ部下にでも素行調査させたんだろうけれど、その道の物事に明るい彼女のことまでコケにする言葉を口にし始めた。
「ああ、何も出来ない無能で役立たずのお前にはお似合いか。」
「用があるのは俺だろ。彼女は関係ないし彼女は俺を見てくれた。他ならぬ俺自身を。彼女はあんたとは違う。あんたなんか彼女の足元にも及ばない。」
「度し難いお前を見るなどとは。目が見えないくせに一体何が出来るというんだ。身の程知らずで片腹痛いにもほどがある。」
「っ・・・―――!!!彼女を侮辱するな!俺のことはもういい、何とでも言え。でも彼女には謝れ!彼女には、彼女だけはっ!!!」
フンと鼻を鳴らす親父の胸倉を掴んでやかましさなど構ってられないから一蹴にして、彼女を蔑視されるのは我慢ならなくて無我夢中で怒鳴りながら叫べば、さすがに止めに入った部下達が引き離しにかかり掴む力が弱くなったところで、親父は俺を思いっきり地面へ叩きつけるように投げ飛ばした。
俺もろともに巻き込まれた部下達はよろめいた程度のようだが、俺はザザッと音がするぐらいに勢い良く硬いコンクリートの上を滑降した形になって、受け身を取ろうとした手が少し痛むから擦り傷ぐらいは出来ているだろう。
「薄汚い手でわたしに触るな。」
乱れたスーツの襟を直しながら言い捨てる親父にもはや言い返す気も起きず、立ち上がる気力も無く尻もちをついたような体勢で座り込む。
「こちらです。」
彼女が彼女を保護していた警察官と共に近付いてくる。
「12時の方向、真下に座り込んでいます。」
「あっ・・・」
座り込んでいると言われた彼女が俺に向かっていつものように手を伸ばすから、手を取ってしゃがみ込もうとする彼女を誘導する。
「あんなに大きな声も出せるんだね。初めて聞いた。私がびっくりするから、普段は出さないように気を付けてくれているでしょ。」
「ぇ?あぁ・・・ごめん、驚かせて。」
「ううん、もう大丈夫。」
彼女のゆったりとしたほんわかな雰囲気と温かい手に包み込まれて、底冷えして冷え切った身体と心にじんわりと温かさが染み渡る。
皮がめくれているのが目に入ったけれども見た目ほどには感じず、寧ろスーッと痛みが引いていく感覚がするのも彼女のお陰だ。
「さっきね、全部聞いた。」
「!!・・・そうか。」
二度と会わずに終わらせることも出来なかった。
それなのにもう一度会えて嬉しいと思う俺はなんて自分勝手なんだろうか。
「俺は君の傍に居ちゃいけない。親父の言う通り俺は出来損ないだ。認められたくて認められなくてムシャクシャして。事件を起こして隠されて。何も変わらないどころかますます惨めになるだけで。親父には遊びだって言われたけれど、店は結構本気で。まあでももう人手に渡したけど。心配しなくても全員分の再就職の手配は済んでいるから。店、移ってもらうことにはなるけれど。俺に言われても困ると思うけど信頼出来るところだから。」
大切な思い出を汚(けが)したのは俺だ。
「罪を償うなんて真っ当なこと俺には出来ないだろうから、凶悪犯ってことで終わらせたかったんだけどな。それも上手くいかなかった。呆れてものも言えないよな。こんなことすら出来ないんだよな、俺ってやつは。」
彼女と出会ったのも付き合えたのもこの場に居たのも想定外。
「こんな俺に付き合ってくれて。・・いや、付き合わせてごめん。悪かった。これからはもう何も煩わされることもなくなるから安心していい。」
彼女に嫌われて憎まれて恨まれるまでが想定内。
それで構わないしそれが当然。
それでも握っているこの手を離したくない。
「これ。」
一言も口を挟まなかった彼女がショルダーバッグから取り出したのは俺がプレゼントした指輪で、俺なんかからの物は金目のものであってもいらないということだろう。
「つけて。」
「え?」
差し出されたリングケースを受け取れば、彼女は代わりに手の甲を上にして左手を差し出した。
「店の人達に聞いたらデザインは婚約指輪のものだって。色とか形とか雰囲気とか、いつも事細かに伝えてくれるのに変だなと思っていたんだけど。言いたくなかった?」
「そんなことは・・・」
言いたくないわけがない。
そう即座に否定したかったけれど彼女に俺の影がこれ以上あってはならない。
「指輪渡しておいてプロポーズもせずに売ればいいなんて勝手な人。そんな勝手な人だとは思わなかった。こんな一方的に言われて私が納得するとでも思っているの?」
言い淀んだ俺に彼女は差し出したままだった左手で袖を引く。
突き放すような言葉なのに責められているように感じないのは何故だろうか。
「花火をした時のようなあの臭いは拳銃の火薬だったんだね。あの日も帰ってきてくれたのに、今日でもう戻ってくる気はなかったの?」
「それは・・・」
そうだけれどもそうだと言い切りたくなかった。
不自然さに気付かれていたことは確定したけれど、言ってしまったら俺の中で終(つい)ぞ終わってしまう気がして。
だから話を俺から事件へと逸らす。
「おじさん・・と知り合いだったんだな。命日に花を供えに来るぐらい親しかった人を俺は死なせてしまった。さっき話し掛けていた警察官も知り合いだろう?だったら俺が撃った人も知り合いなんだろうな。」
「・・うん。話していたのは署長をしている幼馴染で、おじさんは幼馴染のお父さんで、撃たれた人は幼馴染の部下の人だよ。貴方を紹介したかったんだけど家族の話あまりしたくないみたいだったから、どうしたらいいかなってずっと考えていたの。あの日の少し前から、貴方の様子がおかしいことには気が付いていたけれど。尋ねるより貴方と居たくて欲張ってしまったから、大事(おおごと)になって迷惑を掛けてしまった。言えなくてごめんね。」
「いや謝るのは俺の方だから。君は何も悪くない。ごめん、俺のせいで色々悩ませて。たくさん傷付けてごめん。」
謝って済むようなことではないしそもそも謝りもしないで居なくなろうとしていたのだから、こんな簡素な謝罪の言葉では今更虫が良すぎるし彼女の言う通り勝手過ぎる。
「私は謝って欲しいわけじゃないし、悩んだのも傷付いたのも私だけじゃない。幼馴染達警察は罪を犯してしまった人を責めて罰したいから、捜査したり逮捕したりするわけじゃない。犯した罪と向き合って償い続けられるようにするためだから。」
不幸だと思ったことがないということそれはイコール幸せなことだといえるのか、という深層心理への敵対的刺激に一本取られたということなのだろうか。
言ったら信じてくれたのかと問わなくても最初の頭出しから信じて、それを証明する為に奔走してくれるだろうということが、アカデミーのような彼女の口振りから感じることが出来る。
酷なことをしたのに捨てたもんじゃないなと思えてくるのもやはり彼女のお陰だ。
だから。
「分かった。どうやったら償い続けられるか考え続けるよ。」
「うん、良かった。戻って来てくれる気になって。私待っているから。・・改めてつけてくれる?」
「え?」
彼女は先程と同じ様に手の甲を上にして左手を差し出す。
「・・・いや、それは、俺がつけるべきじゃない。」
「どうして?」
「ど、どうしてって・・・俺は犯罪者だ。君の幼馴染や知り合いの人達は警察の人間だろう。親父が気にしたように立場に影響があるから。」
「立場を気にするようなら貴方の捜査はしないんじゃない?」
「そう・・・かも、しれないけど・・・いや、でも・・・」
彼女が嫌いなわけじゃない。
彼女が好きだ、誰よりも愛している。
彼女にとって俺の存在が悪くはあっても良くないのは頭では分かっているけれど、俺から別れすら切り出せないのは情けないどころか卑怯だ。
「貴方が他に何を迷っているのか分からないけれど、私が幸せになるのに誰も反対なんてしないし、私は何があっても貴方と別れるつもりなんて無いよ。貴方がプロポーズしてくれないなら私からしようかなと思っただけで。婚約指輪なんて渡してその気にさせておいて、そんな勝手は私納得出来ないって言ったよね。」
寄り添ってくれている言葉なのに責められているように感じるのは何故だろうか。
俺の起こした事件より俺がプロポーズをしなかったことに怒っているような気がして、そんじょそこらの比ではないくらい凄みが静かに増している気もする。
というか基本的におっとりとした性格で押しが強いことを吹き込まれても、視覚障害者ということで親父みたいな奴に蔑まれたりしても、その走者の打開策の出方はいつも笑顔で流す凄技の走法なのに。
視線が噛み合っていないのにも関わらず途轍もない圧を感じて、こんなにも怒っている彼女は初めてではないだろうか。
原因が本当に俺がプロポーズをしなかったことだったとしたら、発色の良いハイトーンでそんな嬉しいことは無いけれど、彼女のこの手を取ることはきっと俺のためにしかならない。
「分かった。幼馴染達と縁を切るわ。」
「・・・は?」
「そうすれば貴方と居られるってことでしょう?」
彼女の手を取ることもなく開いたり閉じたりしていた拳を握り締めたまま、彼女が名案だとでも言うようにとんでもないことを言い出してしまった。
幼馴染をはじめ成り行きを見守っていた彼女以外の人間が驚きを隠せないし、彼女が何をそこまで拘っているのかが分からない。
「君が縁を切る必要は」
「出来損ないと思っているならそれでもいい。」
差し出されていた左手はゆっくりと伸ばされて俺の頬にそっと触れる。
「私は貴方が良い。」
強張った表情も固まった身体も力が抜けていくように解けていく。
頬に触れる君の手の上に俺の震える手を繋ぐような気持ちで重ねる。
「君が好き、君を愛している。」
涙が溢れてぐすっと鼻をすすって全身が情けなくなっているのは分かっている。
けれど彼女に伝えたい。
俺の気持ち。
言えなかった伝えたかった気持ち。
「君と結婚したい。俺と、結婚してください。」
ここのところ合わせられなかった視線が噛み合った気がする。
「はい。よろしくお願いします。」
嬉しそうに彼女が笑ってくれてそれを見て俺も笑う。
まだ笑うことが出来る。
「おかえりなさい、でいいんだよね?」
「うん。ただいま。」
離れるのが少し寂しくてまた会えるのが凄く楽しみになるのは。
俺の存在も俺の居場所も俺が戻りたいのも俺が戻って来るのも。
総て彼女だ。
渡されて持ったままだったリングケースから指輪を取り出して、彼女の左手を取って薬指につける。
これで名実一体に正真正銘の婚約指輪になってくれた。
「似合う?」
「うん・・・、とっても似合う。」
自慢するように見せびらかすように婚約指輪をつけた手を俺や幼馴染達に向ける。
彼女が笑って俺が笑って幼馴染達も仕方がなさそうに笑って。
止めようがないこの気持ちはもう止めなくていい。
笑いあえるなら、まだ大丈夫。
いや、もう大丈夫。
幼馴染にきちんと手錠を掛けてもらって、彼女と俺自身で厳に生きていく。
「いってきます。」
「いってらっしゃい。」


