上司のヒミツと私のウソ
 矢神はじっと私を見つめていたけれど、やがてかすかに首を傾げてふわりと笑って見せた。

 お得意の極上スマイルだ。私はカッとなった。

「仕事が溜まってるんです。ぼんやりしてる暇があるなら、手伝ってください」


 私は矢神の腕を取り、強引に立たせようとした。

 その直前、身を屈めた瞬間に、いつもと違う匂いがしていることに気づいた。

 
 矢神がいつもつけているフレグランスの匂いじゃない。


 それに、腕が。

 つかんだはずの右腕がなかった。


「──」


 仕立てのいいスーツのなめらかな布地が、私の掌の中でくしゃっと細くつぶれて、縦に数本しわが寄った。


 私は手を離し、おそるおそる矢神を見た。

 先刻と違わないゆったりとした姿勢でソファに深く腰掛け、なにごともなかったようにほほえんでいる。
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