上司のヒミツと私のウソ



 その日、矢神からの連絡はなく、私は胸に懸念を詰めたまま帰宅した。

 アパートに帰ってもなにも手に着かず、気持ちを紛らわすために煙草を吸った。


 今ごろ、矢神はなにをしているんだろう。

 ずいぶん長い間、矢神の声を聞いていない気がする。


 ちらりと携帯電話に目をやった。

 私の携帯には、まだ矢神の番号が登録されたままだった。


 矢神のマンションの部屋の前で追い返されたバレンタインデーの日、もう二度と彼の番号にかけることはないとおもいながらも、どうしても消すことができなかった番号。


 私は携帯電話を手に取り、電源を入れた。


 付き合っていたころも、頻繁に電話をかけていたとはいえない。むしろ、私も矢神もあまり電話を使いたがらないほうだった。

 矢神からはデートをキャンセルする連絡が多かったけれど、彼はたいていメールを使っていたような気がする。


 どうして、私はいま矢神の携帯電話にかけようとしているんだろう。

 たった五日、会わなかっただけなのに。

 こんなことは、私が企画部に異動になる前ならあたりまえのことだった。

 だけど、もうあのころにはもどれない。

 私も、彼も。
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