上司のヒミツと私のウソ
 つい数時間前まで、彼はとても近くに感じられるひとだった。

 でも、あのとき私がなにもいえなかったのは、彼の心がまったく見えなかったからだ。

 エレベーターの中と外で、私たちはただ茫然と互いの顔を見つめるだけだった。二人を隔てていた目に見えない距離の遠さに気づき、私は言葉を見失った。


 今になってはじめておもう。

 私は矢神課長のことをなにもしらなかった。


 付き合っていた四か月、仕事帰りに一緒に食事をしたり、休日に待ち合わせて遊びに行ったり、たぶん普通のカップルと同じことをしてきたとおもうけれど、彼がどんなときにたくさん笑い、どんなときに腹を立て、どんなときに特別に喜んだり悲しんだりするのか、私はなにも知らない。

 彼はいつも、どんなときも穏やかな態度で私に接していた。


 私はテーブルの灰皿に吸い殻を押しつけた。

 チョコレートケーキを紙袋に入れて、もう一度コートを着る。

 社員名簿に彼の住所が載っているはずだった。住所をメモした手帳を斜めがけのカジュアルバッグにいれ、アパートを出た。
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