上司のヒミツと私のウソ
 左の頬にはまだ、矢神の手のひらの感触とぬくもりが残っている。頬に生まれた熱はたちまち全身にひろがって、一瞬で身体の芯が熱くなる。


 冷静になろうとしても無理だった。私はさりげなく席を立った。

 安田がちらりとこちらを見たのに気づいたけれど、視線を合わせないようにして執務室を出た。とてもじゃないけど仕事にならない。


 廊下を突き進み、非常階段の扉を開ける。

 しんとした薄暗い空間に、ガチャンと鉄扉の閉まる冷たい音が響く。


 もういちど、ゆっくりと深呼吸をする。


 ひとりになると、少し気持ちが落ち着いてきた。

 左の頬はまだじりじりと熱を帯びている。


 眠りこけている矢神の顔が子供みたいだったから、つい近づきすぎてしまった。

 だからあんなことに?

 でも、だれが予想できる? 目をさましたとたん、矢神があんな行動に出るなんて。

 ほんとうに心臓が止まるかとおもった。
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