上司のヒミツと私のウソ
 アパートの前でタクシーを降りた。

 ひとりになると、池橋有里と名乗った女性の華やいだ顔が何度もよみがえり、しつこく苛む。


 彼女がいるのに、どうして矢神は私に好きだなんていったんだろう。

 あんなに若くてきれいな恋人がそばにいるのに、本気だなんてなぜいったんだろう。


 冗談でしょって笑い飛ばせたらよかったのに、できなかった。


 酔いに浸った体を引きずってアパートの階段をのぼり、部屋の鍵を開け、スーツのまま前のめりにベッドに倒れこんだ。


 水の中を漂うように、体がやわらかく浮遊している。

 お酒を飲んで酔ったのははじめてだったけれど、気分は悪くない。


 このまま心地よく眠って、目覚めたらなにもかも夢だった、という展開ならありがたいのにとおもう。

 そのまま眠ろうとして、矢神に連絡するようにいわれていたことを思い出した。


 そのへんに放り出したバッグに手を伸ばし、携帯電話をとろうとして、矢神のことなんかどうでもいい、とおもいなおした。
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