上司のヒミツと私のウソ
 フロアにはほかに誰もいないというのに、やっぱり極上の笑みを浮かべている。これはもう無意識だろう。重症だ。


「もう帰ります」

「遅くまで悪かったですね。安田さんに、倉庫のようすを見にいくようにといっておいたのですが」


 なにか小さな棘のようなものが胸にひっかかった。


「安田さんなら、さっきまでずっと手伝ってくれてましたけど」

「ああ。そうでしたか」


 とたんに、矢神の顔が安心したようにほころぶ。


「困ったことがあれば彼女に相談してください。信頼できるひとですよ」


 言葉がすっと出てこない。棘は胸にひっかかったままだ。


「お先に失礼します」

 私は執務室を出た。


 会社を出ると冷たい夜風が頬を刺した。三月になって春の気配が近づいたとはいえ、外気にはまだまだ冬の匂いが残っている。

 お腹がすいていた。駅の改札を出てアパートまでのバス通りをとぼとぼ歩きながら、冷蔵庫の中身を思い出し、すぐに食べられるものがないことがわかると、ますますひもじくなってきた。
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