三十路で初恋、仕切り直します。
「あの、送ってくれてありがとう」
ようやく昔は祖父の、今は泰菜の住まいである一軒家に辿り着くと、車を停めて下りてきた法資は庭に植えられた大きな梅ノ木の根元まで歩いていった。
「この木も昔のまんまだな。……ガキの頃見たときより、少し小さく見えるけど」
「よく英達にいちゃんと木登り競争して、おじいちゃんに怒られてたよね」
「おまえもな。パンツ丸見えでよじ登ってたな」
そういって二人で梅ノ木を見上げる。きっと今、泰菜と法資は同じ画をみている。葉の生い茂った大木の根元で梢を見上げる三人の子供の姿を。
「……法資、お茶でも飲んでいく?」
思い出を共有する法資との別れが名残惜しくて思わず口にすると、法資は「なんだその昔のナンパみたいな誘い文句は」と笑い出す。その反応に少しだけむっとしながらも、
「温泉で仮眠したくらいで、あとはずっと運転しっぱなしだったでしょ。帰りに居眠り運転でもされたら」
「困る」と言いかけたところで、おでこに強烈な一撃を食らった。法資のデコピンだ。
「いったぁ……もう、法資っ!」
「さっきの話の続きな」
「え、えと」
話題を急に変えられて、怒りの矛先を見失う。
「さっきのって、法資の仕事の話?」
法資が浅く頷く。
「望んだ配属先じゃなかったけれど、今の仕事もそれなりに楽しいと思ってやってる。けどまだ設計に携わるのを完全に諦めたわけじゃない。今は目の前のことにがむしゃらになっていたら、いつか設計の方に、そうでなくてもそれに近いチームに呼んでもらえるんじゃないかってそう思いながら仕事してる。まあずっとこのままってこともありえるけどな」
「……なによ法資らしくない」
「俺らしいって何だよ?いっつも自信満々で嫌味ったらしいってことか?」
「まあそうね」
あえてつれない返事をしてみると法資は「言ったな」とすこしだけ本気で腹を立てたような顔をする。
「でもいいのよ。法資みたいな有能な男は堂々としてるのがお似合いなんだから」
「……おまえは何も考えてないんじゃないかって思うくらい、昔からすぐ俺を持ち上げるようなこと言うけどな。おまえが思うほど俺は万能じゃないし、さすがにその自覚だってある。……俺の思い通りにならないことなんていくらでもあるんだよ」
それくらい分かっているのだと、法資はまるで自分自身に言い聞かせるように言う。
「いつになく謙虚なのね」
「そりゃ振られた後ともなるとな」
冗談とも本気ともつかない言葉に泰菜が反応に戸惑っていると、法資が破顔する。
「そんな困った顔すんな。……俺から言わせりゃ、おまえの方がよっぽどすごい。おまえは昔から、空回りするくらい一本気で、周りのことをよく見られる、気の濃やかな奴だったよ。おまえが武弘じいちゃんのために静岡に来るって決めた18のとき、俺はおまえとは違ってもっと自分のことしか考えていないような、どうしようもないガキだったってのに」
------法資って、こんなにやさしく笑うことが出来たんだ。
思わず見入ってしまうほど法資がやわらかに笑む。法資にこんなにも直球で褒められることは、生まれてはじめてかも知れなかった。それをうれしく思う。でも胸の奥がしくしく痛むように熱を孕んでいるのは、それだけが理由ではない気もする。
「いろいろまずい言い方して悪かったな。おまえは十分いい女だ」
「……これからすぐ帰るの?」
俯く泰菜をじっと見た後、苦笑いのようなものを浮かべながら、
「折角静岡まで来たんだから、また適当に温泉でも探してぶらぶらしながら帰る」
そういって、法資は運転席に乗り込んだ。
本当にこの人とこのまま別れていいのだろうか。そんな焦りにも似た疑問が胸に渦巻く。なのに心とは裏腹にうまく言葉が出てこない。
「じゃあな。次会うときはお互い独身じゃないことを祈るとするか」
茶化すように言いながら法資がハンドルを握る。
伏せていた顔を上げると、法資と目が合う。いつになくやわらかな目をしている。泰菜を見詰めてふとやさしく目を細める。
このままでは、法資のこの笑みもただの思い出のひとつに埋もれていくだけになってしまうのに、それでも泰菜の口から言葉は出てこない。
法資は片手を挙げて車を発進させた。
「……おまえは俺にだけはほだされないんだな」
その苦い呟きだけを残して、泰菜の目の前からもう決して手の届かない場所へと走り去っていった。