三十路で初恋、仕切り直します。
11 --- 失恋にも似た燃え尽き方

「相原あァ、おまえ何ボサッとしてんだッ」


人生でいちばんと言ってもいいほど濃かった休日が、ようやく空けた月曜日。



生産計画書を片手に工場内を歩いていたところ、突然背後からひどいが罵声を浴びせられた。さすがに10年近くも聞いていると慣れてしまうものだが、今日はいつも以上に心も知覚も感度が鈍い。


「聞いてンのかアッ帯側歩行は基本だろがッ、何通路の中央歩いてんだ、相原てめぇはフォークに引かれてぇのかバッキャローッ」


言うほど白線から出てないでしょとか、うるさいとかいちいち大声で驚かすなとか、いつもは次々に口から飛び出てくる反撃の言葉が今日はまったく浮かんでこない。そんな泰菜を不審に思ったのか、操作していたフォークリフトから下りてきたヘルメットの中年男が泰菜に駆け寄ってくる。


「おい、相原ァ」
「はい?」
「おめぇ………大丈夫か?」


極太マジックで描いたような黒々した眉毛を寄せて聞いてきたのは、G班の班長田子だ。


「ンだよ覇気のねぇ面しやがって、いつもの威勢はどこ行ったよ?」
「べつにいつも通りですよ……」

「ど、こ、が、だ、馬鹿野郎!シケた面しやがって、いつも真っ平らな顔がますます平坦に見えてんぞ」
「……彫が浅い日本人顔なのはもともとですから」

「お、おいおめぇ……ホントどうしたんだ?」


気持ち悪そうに泰菜を見た後、田子は「そうだ、今日飲みに連れてってやるよ」とぱっと顔を輝かせて提案してきた。


「三島のママがさぁ、いいポン酒入ったって言ってたんだよ。なぁ、相原も嫌いじゃないだろ?」
「好きですけど。……でもお断りします。班長いっつも、酔うと最後はこっちが聞きたくもない風俗の武勇伝聞かせてくるじゃないですか」


濃い下ネタにまったく免疫がなく、はじめてその手の話を聞かされたときは、田子の話のあまりの生々しさに何度も嘔吐感が襲ってきて泣いてしまったが、男社会の職場で揉まれた今では平然と聞き流せる程度の免疫はついた。だからといって酒の席で積極的に聞いていたい話ではないが。


「お?ンだよ新しいのが聞きてぇか?この前プレスの井野の誘いで激安っつぅソープ行ったらよ、俺のお袋くらいの歳の化け物みてぇな風俗嬢が出てきてな……」


げらげら笑って話す田子の傍からすっと離れようとすると、強面のくせに実は結構構われたがりな田子が少し焦った顔で追ってくる。


「待った待った、俺が悪かった。……おまえはホントにどうした?まさかウツだ精神科だとか言わねぇだろな。勘弁してくれよ、ただでさえ人手がな」
「違いますよ。そういうことじゃなくて。……ただ昨日、昔の友人からプロポーズされただけです」


だからその余韻みたいなもので変になってるのだと告げると、途端に班長が顔を真っ赤にして絡んでくる。


「んだと、てめぇ。それでとっとと辞めてやろうって腹か!?折角使い物になってきたってのによぅ、寿退社なんて認めねぇぞ俺は。辞めるんだったら先におまえンとこの釣り目小娘先に辞めさせろってんだ」
「……千恵ちゃん、また何か問題でも?」


千恵は泰菜の後輩で、猫系を彷彿させるアーモンド型の目がややきつく見えるが、顔が小さくてきれいな女の子だ。けれど班長の田子は前から泰菜が世話を見ているこの新人のことが気に食わないらしく、泰菜の前だけでなく千恵本人が聞いている前でもはばかることなく文句を言っていた。


「問題もなにも、あの女いい加減欠勤だ早退だが多すぎなんだよ。来たら来たで、ほら」


田子が工場内の一点を指差す。そこには顔色を悪くした若い女が壁に寄りかかって立っていた。


「ああやってサボってばかりでよ」
「……千恵ちゃん……!!」
「ゴラァアっ、相原、走るの禁止だろがぁあッ」


その場に田子班長を置いて、泰菜は駆け足で千恵の傍に寄った。





< 62 / 153 >

この作品をシェア

pagetop