デジタルな君にアナログな刻を
「円、ちゃん?」

また空振りだろうと高をくくっていたわたしは、耳慣れた低い声でゆるりを頭を持ち上げる。

「あ、店長。おかえりなさい」

ずっと動かしていなかった口が、驚きと安心と寒さで上手く回らず、少々ろれつが怪しくなった。

「おかえりじゃないよ。なにしてるの?こんなところで」

「待っていたんです。店長に言いたいことがあって」

目の前に立った険しい面持ちの店長に見下ろされ、少しでも目線を近づけたくて立ち上がる。はらりと視界の片隅を白いものが掠めていった。

「待ってたって。そんなに急ぎの用事?電話とか明日じゃダメだった?……こんなに冷たくなって」

左頬が大きな手に包まれる。たぶん店長の手もそれほど温かくはないのだろうけれど、冷え切っていたわたしの肌にはカイロよりも熱く感じた。

「急ぎというか。あ、でもこういうのってひと月以上前に申告するものでしたっけ?」

いざとなると騒ぎ始める心臓が、身体の中心に新たな熱を生み出す。
店長は「なに?」と訝しげに頬に添えた手を動かし、わたしの顔をさらに上向けた。正面から見据えられ怖じ気づくけれど、この期に及んでごまかすことなんかできない。外気に晒されひんやりする店長のコートの胸元にそっと手を添え、真っ直ぐに目を合わせる。

「わたし、お店を……薗部時計店を辞めます」

最大まで見開かれた眼が、ゆっくりとなくなりそうなほど細くなり、頬から右手が、熱が離れていく。
店長は深いため息の後、くたりと顔を歪めた。声をかけられたあの雨の日みたいに、泣いてしまうんじゃないかと勘違いするほど心細げな表情が、わたしの言葉を詰まらせる。

「理由を、訊いてもいい?給料かな。休みのこととか仕事の内容?それとも……ん?」

不意に店長が屈んでなにかを拾い上げて確認し、眉をひそめた。

「立河さんになにか言われた?」

店長は指先で摘まんだ小さな紙切れの名前をしばらく睨み付けてから、グシャッと丸めポケットに突っ込んでしまう。前職の話を聞いてしまったことは喋らない方がいいのだろうか。
口ごもっていたわたしの手首が握られた。

「ここじゃあ寒いね。それにこんな場所でする話でもない。続きは上でしよう」

そのまま引っ張られ、居住者用のエレベーターの前に立つと、店長が持っている自宅のキーに反応したのか扉が開く。

「円ちゃん。僕の部屋においで」

いつものやや疑問系の語尾じゃなくて、拒絶を許さないほど強い断定。彼はわたしの返事をろくに確認もせず、その言葉通り動く小さな密室へと誘う。

自動的に点いたランプが示す階は15。最上階だ。
わたしの手は繋がれたままで、反対側の不自由なはずの左手には荷物があった。

「持ちましょうか」

それほど重そうではないけれど負担には違いない。だけど、わたしの申し出に店長は首を横に振った。

「大丈夫って言ったはずだよ」

しばらくの沈黙のあと、エレベーターは静かに停止した。
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