デジタルな君にアナログな刻を
【番外編】
正午 三月ウサギとカメと、きびだんご
◇ 正午 ウサギとカメと、きびだんご ◇
珍しく開店から立て続けに来客があった『薗部時計店』は、お昼少し前になって、ようやくいつもの暇……もとい、静けさを取り戻していた。
作業机に頬杖をついてぺらりぺらりと冊子をめくる店長の後ろから、淹れたての緑茶を差し出す。
「ちょっとお茶の時間には遅くなっちゃいましたけど、やっと手が空いたので」
「ありがとう。円ちゃんの淹れてくれるお茶、美味しいんだよね」
ふにゃりとした笑顔でまだ熱いお茶をすする。
「うーん。同じお茶っ葉を使っているはずなんだけどなあ」
湯呑みの水面を凝視して、店長は腑に落ちない様子で首を捻った。わたしもつられて首を傾げる。
「ですよね。いつもどうやって淹れているんですか?」
あの抹茶と見紛う如き濃いお茶は、どのようにして生み出されるのか。長年……といっても半年ちょっとの疑問が、ようやく解消されようとしていた。
「え?普通だよ。スプーンで茶葉を急須に入れて」
スプーン?どれ?
「人数分プラス1だよね、確か。で、3分待って……」
「ちょっと待ってください」
短い言葉の中に確認事項がいくつもあるぞ。
「茶匙はどれを使っています?」
「コーヒーのと一緒。だって、横に置いてあるから」
コーヒー粉をすくうスプーンはそこそこ大きい。それに……
「プラス1は紅茶です」
しかもティースプーンで、だ。
「それに店で使っている茶葉は玉露ではありませんから、そんなに待たなくてもいいんです」
「へえ、そうなの」
これは今度、しっかり指導しなくては。商店街の皆さんも指摘してあげればいいのに、妙なところで遠慮深いんだから。
いろいろと呆れつつ、書類や封筒が散らかる机に広げられたカラー写真に目を留めた。
「なにを見ているんですか?」
「ん?」と向けられた店長の顔が、手元をのぞきこんだわたしの顔の真横に迫り、慌ててのけ反る。近い近い。
「次にショーウィンドウに飾る時計を探してたんだけど、円ちゃんはどれがいいと思う?」
ひょいと身体を脇にずらし、机の上のカタログを見せてくれた。それはからくり時計の最新版カタログ。例の童話シリーズのラインアップが増えたらしく、先日送られてきたものだ。
新春セールと銘打って厳選した時計をショーウィンドウに並べ30パーセントオフで売り出した結果、いつもより多くのお客様に来店してもらうことができた。徐々に『薗部時計店』を認知してきてもらえているようで、ほっとする。
おかげさまで再び寂しくなったショーウィンドウに置く時計を選んでいるということらしい。
「今回はどんなものが増えたんですか?」
カタログには新製品がより大きな写真で載っている。
「ウサギとカメに、浦島太郎ですか……」
どちらも『カメ』つながり。説明によれば、竜宮城からウミガメの背に乗り出てきた浦島太郎が玉手箱の中を通ると、白髪のおじいさんに変わるという。真剣にこの時計メーカーの行く末が不安になってきた。
「やっぱり、女の子はこっちが好き?」
店長が指差したのは『シンデレラ』。プラスチック製のガラスの靴の周りをシンデレラと王子様が手を取り踊り回る、このシリーズにしては比較的まともなものだ。
「そうですねえ。……でもわたしは、こっちがいいかな」
選んだ時計は、新商品の『ウサギとカメ』の方。追いかけっこして、途中で余裕をみせたウサギが昼寝してしまう間にカメが追い抜くという有名な童話がモチーフになっている。
「円ちゃんは追いかけっこが好きなんだね。今度はどっちが僕?」
『アリス』の時は、店長を三月ウサギに見立てたけれど。
少し悩んでから、ハチマキをしている緑色のカメの写真の頭を撫でた。
「ふたりとも、こちらじゃないですか?というか、カメがいいです」
ゆっくりでも、一歩一歩確実に。
「一緒に歩いて、ゴールを目指せたらいいな、なんて」
ぼそっと呟いたわたしに、店長は「なに?」とネクタイの結び目に指をかけ、長めの前髪の下から上目遣いで訊いてくる。
「別に、なんでもないですっ!」
「ふーん」と店長がネクタイを首から引き抜いた。
「……暑いんですか?」
「うん。ちょっと息が苦しくなっちゃって」
ほんのりと朱い顔をして、ワイシャツの襟元からパタパタと中に風を送っている。
「ネクタイが苦手なら、スーツを着なければいいのに」
自営業なんだから無理にスーツにしなくても。現にわたしなんて、ずいぶんとラフな格好だと思う。デニムのエプロンの裾をもじもじと両手で揉んだ。わたしもパリッとスーツにしようかな。
「だって、さ」
俯いていたわたしの首に、ついさっきまで店長が締めていたグレイ地に小さなドット柄のネクタイがかけられた。
「この格好の方が“それ”っぽいでしょ?それに――」
にっと片方の口角が上がり『三月ウサギ』の顔になる。ネクタイの端を私の手に握らせて、
「毎朝、円ちゃんに結んでもらえるし。ねえ、もう一度お願いしてもいい?」
まんまと策に嵌められた気もしないわけではないけれど、結ぶ時のこの距離感が嫌いじゃない自分がいる。立ち上がった彼の首に回したネクタイを、いつものように結び始めた。
回数をこなして上手くなったはずなのに、指の先まで伝わってくるドキドキが邪魔して手間取ってしまう。
「できました」
なんとか作った結び目は、ほんのちょっとだけ不格好。だけど店長はそこに手をあて、満足げに顔をくしゃりとさせる。
「ありがとう。それからね、円ちゃん」
少し屈んだ彼の口が、わたしの耳に寄せられた。
「結婚はゴールはじゃないから。僕が浦島太郎みたいなおじいさんになっても、まだまだずっとその先までふたりで歩くんだよ。覚悟はいい?」
「……最期まで、責任をもってお供します」
「それじゃあ桃太郎だよ。だったら、きびだんごの代わりに」
クスッと笑った吐息が耳たぶにかかり、その唇がほんの少し移動してほっぺたに押しつけられる。
驚いて見上げた店長の向こう側で、壁掛け時計の針が正午を告げていた。
―― おまけ 完 ――
珍しく開店から立て続けに来客があった『薗部時計店』は、お昼少し前になって、ようやくいつもの暇……もとい、静けさを取り戻していた。
作業机に頬杖をついてぺらりぺらりと冊子をめくる店長の後ろから、淹れたての緑茶を差し出す。
「ちょっとお茶の時間には遅くなっちゃいましたけど、やっと手が空いたので」
「ありがとう。円ちゃんの淹れてくれるお茶、美味しいんだよね」
ふにゃりとした笑顔でまだ熱いお茶をすする。
「うーん。同じお茶っ葉を使っているはずなんだけどなあ」
湯呑みの水面を凝視して、店長は腑に落ちない様子で首を捻った。わたしもつられて首を傾げる。
「ですよね。いつもどうやって淹れているんですか?」
あの抹茶と見紛う如き濃いお茶は、どのようにして生み出されるのか。長年……といっても半年ちょっとの疑問が、ようやく解消されようとしていた。
「え?普通だよ。スプーンで茶葉を急須に入れて」
スプーン?どれ?
「人数分プラス1だよね、確か。で、3分待って……」
「ちょっと待ってください」
短い言葉の中に確認事項がいくつもあるぞ。
「茶匙はどれを使っています?」
「コーヒーのと一緒。だって、横に置いてあるから」
コーヒー粉をすくうスプーンはそこそこ大きい。それに……
「プラス1は紅茶です」
しかもティースプーンで、だ。
「それに店で使っている茶葉は玉露ではありませんから、そんなに待たなくてもいいんです」
「へえ、そうなの」
これは今度、しっかり指導しなくては。商店街の皆さんも指摘してあげればいいのに、妙なところで遠慮深いんだから。
いろいろと呆れつつ、書類や封筒が散らかる机に広げられたカラー写真に目を留めた。
「なにを見ているんですか?」
「ん?」と向けられた店長の顔が、手元をのぞきこんだわたしの顔の真横に迫り、慌ててのけ反る。近い近い。
「次にショーウィンドウに飾る時計を探してたんだけど、円ちゃんはどれがいいと思う?」
ひょいと身体を脇にずらし、机の上のカタログを見せてくれた。それはからくり時計の最新版カタログ。例の童話シリーズのラインアップが増えたらしく、先日送られてきたものだ。
新春セールと銘打って厳選した時計をショーウィンドウに並べ30パーセントオフで売り出した結果、いつもより多くのお客様に来店してもらうことができた。徐々に『薗部時計店』を認知してきてもらえているようで、ほっとする。
おかげさまで再び寂しくなったショーウィンドウに置く時計を選んでいるということらしい。
「今回はどんなものが増えたんですか?」
カタログには新製品がより大きな写真で載っている。
「ウサギとカメに、浦島太郎ですか……」
どちらも『カメ』つながり。説明によれば、竜宮城からウミガメの背に乗り出てきた浦島太郎が玉手箱の中を通ると、白髪のおじいさんに変わるという。真剣にこの時計メーカーの行く末が不安になってきた。
「やっぱり、女の子はこっちが好き?」
店長が指差したのは『シンデレラ』。プラスチック製のガラスの靴の周りをシンデレラと王子様が手を取り踊り回る、このシリーズにしては比較的まともなものだ。
「そうですねえ。……でもわたしは、こっちがいいかな」
選んだ時計は、新商品の『ウサギとカメ』の方。追いかけっこして、途中で余裕をみせたウサギが昼寝してしまう間にカメが追い抜くという有名な童話がモチーフになっている。
「円ちゃんは追いかけっこが好きなんだね。今度はどっちが僕?」
『アリス』の時は、店長を三月ウサギに見立てたけれど。
少し悩んでから、ハチマキをしている緑色のカメの写真の頭を撫でた。
「ふたりとも、こちらじゃないですか?というか、カメがいいです」
ゆっくりでも、一歩一歩確実に。
「一緒に歩いて、ゴールを目指せたらいいな、なんて」
ぼそっと呟いたわたしに、店長は「なに?」とネクタイの結び目に指をかけ、長めの前髪の下から上目遣いで訊いてくる。
「別に、なんでもないですっ!」
「ふーん」と店長がネクタイを首から引き抜いた。
「……暑いんですか?」
「うん。ちょっと息が苦しくなっちゃって」
ほんのりと朱い顔をして、ワイシャツの襟元からパタパタと中に風を送っている。
「ネクタイが苦手なら、スーツを着なければいいのに」
自営業なんだから無理にスーツにしなくても。現にわたしなんて、ずいぶんとラフな格好だと思う。デニムのエプロンの裾をもじもじと両手で揉んだ。わたしもパリッとスーツにしようかな。
「だって、さ」
俯いていたわたしの首に、ついさっきまで店長が締めていたグレイ地に小さなドット柄のネクタイがかけられた。
「この格好の方が“それ”っぽいでしょ?それに――」
にっと片方の口角が上がり『三月ウサギ』の顔になる。ネクタイの端を私の手に握らせて、
「毎朝、円ちゃんに結んでもらえるし。ねえ、もう一度お願いしてもいい?」
まんまと策に嵌められた気もしないわけではないけれど、結ぶ時のこの距離感が嫌いじゃない自分がいる。立ち上がった彼の首に回したネクタイを、いつものように結び始めた。
回数をこなして上手くなったはずなのに、指の先まで伝わってくるドキドキが邪魔して手間取ってしまう。
「できました」
なんとか作った結び目は、ほんのちょっとだけ不格好。だけど店長はそこに手をあて、満足げに顔をくしゃりとさせる。
「ありがとう。それからね、円ちゃん」
少し屈んだ彼の口が、わたしの耳に寄せられた。
「結婚はゴールはじゃないから。僕が浦島太郎みたいなおじいさんになっても、まだまだずっとその先までふたりで歩くんだよ。覚悟はいい?」
「……最期まで、責任をもってお供します」
「それじゃあ桃太郎だよ。だったら、きびだんごの代わりに」
クスッと笑った吐息が耳たぶにかかり、その唇がほんの少し移動してほっぺたに押しつけられる。
驚いて見上げた店長の向こう側で、壁掛け時計の針が正午を告げていた。
―― おまけ 完 ――