デジタルな君にアナログな刻を
「ですから、店長のお世話をしたいと……」

あれ?料理を作るとか、家の掃除をしたいとかって、もしかして彼女でもないのにずうずうしい女っ!?

「す、すみません。そうですよね。迷惑ですよね。ただ、わたしでもなにか役に立てないかと思っただけで。ごめんなさい。帰ります」

空になったマグカップを持って出て行こうとしたわたしの前に、「違う」と店長の長身が立ちふさがった。

「迷惑だなんて、思ってない。だけど、僕は円ちゃんの弟さんじゃないんだよ。それはわかっている?」

落とされた声に顔を上げれば、ネクタイを結ぶ時と同じ、いつもの距離にいる彼。だけどそのVゾーンは、見慣れたワイシャツとベストのものではなくVネックの白いTシャツ。
ネクタイのない首元にふとなにかが引っかかったけれど、それよりも鋭角に開いた胸元からのぞく素肌に目が行ってしまう。
そんなもの、充で見慣れているはずなのに、心拍数が上がっていくのが止められない。

「……あたり、まえじゃ、ないですか」

一旦上げた目線は、次第に足元へと下がっていく。コーヒーでは温まりきらなかった身体に、内側から熱が生まれた。

「だったら、独り暮らしの男の部屋に上がるなんて簡単に言うものじゃないでしょ」

「で、でも。店長は怪我をしていて」

厚かましい上に軽い娘だと思われてしまったのだろうか。ため息交じりで窘められるように言われてしまっては、拙い言い訳しか思いつかない。限界まで俯けた視界には、二人分のつま先しか映っていなかった。

「――円ちゃんは」

びくりと肩が揺れたのは、店長の右手の指先が頬に触れたから。それはつーっと頬を伝って顎先に辿り着く。たいして力が加わったようには感じられないのに、魔法をかけられたみたいにわたしの顔が上を向いた。

「よく、自分は子どもじゃないって言うけれど、人ってたとえ30歳を過ぎたって、それほど大人なわけじゃないよ。特に男なんて、いつまで経ってもガキのまんま」

自嘲めいて歪めた唇の端が片方だけ上がる。どういう意味かと問いたいのに、反らされたままの喉からは上手く声が出てこない。

わたしの戸惑いが彼の何を刺激したのか、店長は意地の悪い笑みを浮かべる。

「円ちゃんは『三月ウサギ』の意味を知っている?」

「ウ、ウサ?なん……」

低く甘い声で唐突に持ち出された単語が頭を駆け巡る。『三月ウサギ』といえば、アリスが追いかけたあのウサギではないの?お茶会の時間を気にして懐中時計とにらめっこしている姿を店長に重ねたのは、ついこの間のこと。

「3月になって春が来ると、ウサギの雄は繁殖期を迎え、発情で気が立って落ち着きがなくなる。そこからきた、そわそわと落ち着きのない人のことをさす慣用句らしいよ」

繁殖期?発情?草食動物の可愛らしいウサギと、やけにリアルな描写が結びつかない。

「ねえ、円ちゃん。僕って、三月ウサギに似ているんだったよね?」
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