デジタルな君にアナログな刻を
「いや、違う。手は大丈夫」

そう言う声音は、どこか辛そうで、寂しそうで。

「円ちゃん、こっち向いて?」

そんなふうに言われては、わたしに逆らえるはずもなく。ゆっくり振り返ると同時に、店長の右手はロッカーから離れていた。

わたしって毎朝、店長のこんな近くに立っていたんだ。いまさらながらにふたりの距離を再確認して耳が熱くなる。
だけど怪我のせいか、やっぱり首元にネクタイはなく、Vネックの黒いカットソー。いつもとは違いかなりラフな服装だ。

「よかった。もう、店には来てくれないかと思ってたから」

俯けた顔を半分隠すように当てられた右手とふんわりとかかる髪のせいで、店長がどんな表情をしているのかはよくわからない。だけど、大きく吐き出された安堵と後悔がごちゃ混ぜのようなため息がすべてを物語る。イブの夜のことをいっているのだと。

「脅かすようなことをしてごめん。大人げなかったね」

『大人げない』その一言がまた、わたしの肩に力を入れさせる。「いいえ」と答えたつもりの声は喉に張り付いて、ずいぶんと掠れてしまった。
バッグの中から出した茶封筒を持つ右手を、彼に突き出す。

「先日のタクシー代のお釣りと領収書です」

「そんなの、いらないのに」

「いえ、そういうわけにはいきませんから」

今日はわたしが押しつけた。渋々受け取ったのは彼の右手。ゆったりめの袖口から左手首を固定する包帯が覗く。やはり左手は動かしにくいようだ。となれば、臨時休業にするのはそれが原因なのだろうか。だったら……。

「店番ならわたしがやります。店長はどうぞ無理をしないで休んでいてください」

土曜日だってわたしひとりで大きな問題はなかったのだ。正月休みに入るまでの今日と明日の二日間くらい、同じように乗り切ってみせる。そう意気込んだ出鼻をくじかれた。

「ありがとう。でも今日はちょっと遠出しなくちゃいけなくなったんだ。この前の時みたいに、もしなにか起きもすぐには戻って来ることができないから」

「え、どこに……」

こんな年の瀬も押し迫っている時期に、店を休んでまでどこへ行くというのだろう。

「ええっと、神戸まで?」

「神戸って、関西の神戸ですか?」

「そう。日帰りだけど、戻るのは夜になると思う。だから今日は……」

続く言葉が予想でき、それを無理矢理遮った。

「大丈夫です。クリスマス用の片付けや新しい飾りも作りたいので、お店を開けながら留守番しています」

「だけど……」

わたしを説得しようとした店長を電話の音が邪魔する。彼は小さく、本当に小さく舌打ちをして店表へ戻っていく。

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