デジタルな君にアナログな刻を
恋する乙女のように、母の短く揃えた爪の指が湯飲みの縁で踊る。

「あの人ね、バイトしながらコンテストとかに応募したりして生活していたんだけど、機材とか現像代にほとんどお金を使っちゃってて、常に栄養失調状態でふらふらしてたの。それで見かねてつい言っちゃったわけ。「面倒みてあげるから、私のところへいらっしゃい」って」

なにそれ。わたしは目を丸くする。それじゃあ、母の方から……。

「逆プロポーズ、したの?」

「逆、なの?だってプロポーズって、男からするって決まっているわけじゃないでしょう?今の時代」

二十数年前が『今』かどうかは置いておくことにして。
この母といい、今日のお客様といい、スゴいなみんな。告白さえも迷っている自分がいるというのに。

「やっていける自信はあったのよ。大黒柱は男じゃなくても構わない。自分が養ってやるって」

母の侠気に呆気にとられていると、よいしょとかけ声をかけて椅子から立ち上がる。

「大昔の恥ずかしいことを言わせるから、変な汗をかいちゃったじゃない。先にお風呂もらうわよ」

「どうぞ、ごゆっくり。片付けはしておくから」

食器をシンクに運び袖をまくって洗い物を始めていたわたしは、「ねえ」と後ろから声をかけられた。泡だらけの手のまま振り返ると、着替えとタオルを抱えた母が立っている。

「この前、円が「大人になる」ってことについて言っていたでしょう?」

結構酔っ払っていたみたいなのに覚えていたんだ。というか、それこそ唐突じゃない?
戸惑いながらも頷き返した。

「責任の多さが大人と子どもの差じゃないのかな。大人になると、自分で選択できる分たくさんの責任を負わないといけなくなる。どう?」

どや顔を見せてから、責任を山ほど抱えてきた手でわたしの頭をくしゃくしゃと撫でる。

「あなたたちがいくつになっても、私にとっては子どもだけどね」

最後にポンとおでこを叩き、お風呂場へと消えていく母。その背中を唖然と見送っていたら、ぼたっとスポンジから泡の塊が床に落ちた。慌てて手を濯ぎ、床にしゃがんで泡を拭う。

責任、かあ。

すとんと母の言葉が腑に落ちた。いわれてみれば、就職したら仕事、結婚すれば家庭、そして生まれてくる子どもにと、年を重ねるにつれて背負うものが多くなっていくものだ。それらの責任をしっかりと受け止め、果たすことができるのが『大人』ということなのかもしれない。

最後の食器を棚にしまい、湿り気の残る手をタオルで拭いていると、腕時計の数字が目に入る。午後8時32分。烏の行水の母が、そろそろお風呂から上がる頃だろうか。お湯が冷めないうちに続けて入ろう。

台所の照明を消した瞬間に、玄関のドアが開く音がして短い廊下の電気が点いた。
< 99 / 142 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop