愛し君に花の名を捧ぐ
「おっさん! 姫様のところへ行くなんて聞いてなかった」

「そうだったか? 後宮に行くとは伝えたはずだが」

 たしかにそう聞いたときには「もしかしたら」と期待したキールだが、すでに皇帝の后になったはずのリーリュアに会えるとは思ってもいなかった。動揺を隠しつつ、ブチブチと瓦の隙間から生えた雑草を引き抜く。

 久しぶりに会った顔はひとつ年下のキールからみても相変わらずあどけなく、本当に人妻になったのかと疑ってしまう。


 リーリュアを独り置いてアザロフに帰る気にはどうしてもなれなかったキールは、帰郷の隊から離れ、右も左もわからない葆の宮処、永菻《えいりん》の町を彷徨いていた。

 どんなに栄えている都市でも暗の部分はある。むしろ光が強ければ、そのぶん陰は濃くなるもの。
 知らず裏通りに迷い込んだキールは、簡単に余所者と見て取れる容貌のせいで、案の定破落戸たちに絡まることになった。

 曲がりなりにも王女の護衛を任された彼だ。それなりに応戦してみせたが、多勢に無勢。たいして持っていない身ぐるみを剥がされそうになったところで、剛燕の助太刀が入ったというわけである。
 彼が持っていた棒切れを数回振り回しただけで、あっという間に立っているのはキールと剛燕のみになっていた。

 遅れて到着した警らの兵に狼藉者を引き渡し、そのまま酒場に連れて行かる。
 口の中の傷が染みるというのに酒をしこたま呑まされ悪酔いした彼は、気づけば剛燕の邸で身重の奥方に介抱されていた。

『一宿一飯の恩を返せ』とニヤニヤした笑みで迫る剛燕に渋々従い、現在に至っている。


『絶対、オレの後をつけていたんだ』

 草を下に放るついでに愚痴を零す。そこそこ離れているはずなのに『なんのことだ?』と、とぼけた返事が返ってきた。

『だいたいおっさん、なんでそんなにアザロフ語ができるんだよ』

『ガキのころからいろんな国を周ったからな。それに、斥候に出るなら相手の言葉がわかるに越したことはないし、捕虜の尋問にも役に立つ。――まあ、手に入れたいもののために足掻いた“おまけ”だ』

 自慢げに厚い胸板を反らす。

『だが、傍にいるだけじゃ、一生かかっても手に入らないものだってあるがな』

 剛燕がちらりと地上に視線を移す。つられて見下ろせば、落ちてきた草を率先して拾っているリーリュアの姿が目に入る。

『最初から、手に入るとは思っていなかった』

 ただ、傍にいられるだけでいいと思っていた。

「ふたりとも! 一度降りてきて休憩しましょう」 

 見上げて大きく両手を振り叫ぶ彼女に、キールは手を振り返す。
 
 こんな日常がずっと続けばいい、と――。

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