愛し君に花の名を捧ぐ
「無理をしなくていい。気に入ってもらえたのは嬉しいが、やはりここではなにかと問題がありそうだ。住まいを遷ってはもらえないか」

「どちらへ?」

 とうとう皇宮を追い出されるのでは、と身構える。ところが告げられた移転先は意外な場所だった。

「昇陽《しょうよう》殿へ。あそこならば、警備の目も行き届くし、なにか起きてもすぐに駆けつけられる」

「なにか?」

 この前の件を気にしているのか、物騒な物言いが気にかかる。訝しげに小首を傾けると、苑輝は緩やかに口の両端を上げ頷く。

「ああ。そうだな。たとえば雷が鳴り始めたら、こうして西姫を抱いて守ってやろう」 

 両腕を腰に回され、今までと比べものにならなくくらいに引き寄せられる。途端、凪いでいたリーリュアの鼓動が雷の轟よりも大きな音を立てた。
 自分も遠慮がちに苑輝の背に手を回し、玉香と微かな酒精が香る胸に驚きと嬉しさと、羞恥に染めた頬を寄せる。

「苑輝様がいてくださるのなら、なにも怖いものはありません。雷だって、なんだって」

 淡い熱を感じる甘やかな瞳に映る自分の姿に、ようやく想いが苑輝に届いたのだとリーリュアは思った。

 証をねだるように見つめ返したリーリュアの頤に指が添えられる。キールのときに感じた戸惑いは皆無だった。

 しかし次の瞬間、苑輝の瞳からすっと熱が引いていく。苦悶が浮かぶ表情はなにかを堪えているようにも見えた。
 やがて深い嘆息のあと、顎にあった指先は力なく下げられる。

「――無事に雛が巣立つまで見守らなくては」

 リーリュアは息を呑む。あらためて向けられた眼差しは慈愛に満ち、決して冷たいものではない。だが彼女が望んでいたものとは、違うのもだ。

「わたくしはもう、雛鳥ではありません」

 長い睫毛を伏せ呟くと、苑輝は腕の中からリーリュアを解放した。彼女を包んでいた温もりと香りが遠ざかっていく。

「必要なものはこちらで揃えておく。明日にでも遷るがいい」

 背を向け房から出ていく苑輝のまとう縹色をした深衣が、裾から膝のあたりにかけ色が変わるほどしっとりと濡れ、ずいぶんと泥で汚れていたことに、リーリュアは初めて気づく。

 落雷による出火の知らせを聞いた苑輝は、髪を結う暇も惜しみ駆けつけてくれたのだ。

 理由に思い至り、きちんと礼を言わなければと房を飛び出したが、、すでに苑輝の姿は思悠宮から消えたあとだった。
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