北向き納戸 間借り猫の亡霊 Ⅰ
 手だけじゃなく、目も声帯も、一時的に動きが止まった。
 凛乃にこの家を売る。とても驚いたのに、あっさり腑に落ちた。求める人がいれば、家を売ろうと思った。こんなに近くに、求める人はいた。
「いまわたしが家を買えるどころじゃないのは、よくご存じだと思います。手付け金といってもちょっとしか払えないし、運よくすぐに正社員で勤めだしたところで、ローンはまだ組めません。でも!」
 凛乃は膝の前に両手をついた。
「たくさん働いてぜったいにちゃんと支払いますから、わたしに売ってください」ほぼ土下座に等しいくらい、深々と頭を下げる。
「やめて」
 とっさに強く言ってしまった。凛乃の肩がびくりとふるえたことに驚いて、累は言い直した。
「ちがう。わかったから」
 凛乃の肩をつかんで押し上げる。
 しょぼくれた顔で見返す凛乃に、「そういうこと、しなくていいから」累は言い聞かせた。
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