北向き納戸 間借り猫の亡霊 Ⅰ
 1秒でも早く男の視界から消えるために、最寄りの角を曲がる。どこかへ行くことよりも、遠くへ離れることを優先した。
 さっきまでの凛乃はふだんより背筋を伸ばして、久々に履いたというヒールの高いパンプスで、きびきびと歩いていた。軽快に響く靴音には、おそらくこんなふうにオフィスを駆けまわっていたと思わせる、凛々しさがあった。
 いま腕のなかの凛乃は、歩きかたを忘れたようにぎこちない足の運びで、累に引きずられるようについてくる。
 目に入ったエスカレータに凛乃を促し、もたつく足をどうにか段に載せる。並んで上昇していくあいだ、凛乃はうしろにひっくり返りそうなほど、重心がふらついていた。
 3階に着いて数歩も行かないうちに、凛乃が腕のなかで急にふりむく。
「わたし帰ります。仕事しなくちゃ」
 そのまま駆け出していきそうな凛乃を、累はさっきと同じ左腕で抱き寄せた。今度は向かい合わせに、さらさらの髪ごと自分の胸に押し付ければ、表情を盗み見ることはできない。でもTシャツに、生温かいものが染みていくのがわかった。
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