北向き納戸 間借り猫の亡霊 Ⅰ
「本業?」
 この荷物の山を見て導き出せる職業がわからない。
「翻訳。フランス語の。創作本の翻訳をすることはまだ少ないけど」
「好きなことを仕事にされたんですね」
「というより、母親がフランス語教える人で、息子にもフランス語で話しかけるような家庭環境だったから」
 掃除不要とはいいながら、累が先導するように部屋の中に入る。凛乃は使いかたのわからないトレーニングマシンをしげしげと観察した。
「翻訳家って、筋トレが必要なんですか?」
「気分転換。小説とかの翻訳ではまだ食えてないんで、家電とか化粧品の取説とか、学術書とか、とにかくなんでもやってると、煮詰まる」
 足を踏み入れることもできなかった隣よりは、ここは歩けそうだ。でも見晴らしのよさそうなベランダへは、通路が開けていない。凛乃は、掃出し窓のまえに置かれた、おそらく腹筋器具と言われる物体を恨めしく見ながら、なにげなく部屋を見回した。
「あ、アルコーヴベッドみたい!」
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