北向き納戸 間借り猫の亡霊 Ⅰ
 驚いた凛乃より、驚かせた累のほうがびくっと身を震わせる。
「あ、ごめんなさい。出かけたくない人なんだと思ってて」
「……対面で打ち合わせしたいっていうクライアントもいるから」
 累は言い訳するようにつぶやきながら流し台まで行き、食器を置いて水を出し始めた。慌てて立ち上がった凛乃は、累と蛇口のあいだに割り込んだ。
「わたしがやりますんで! そのままにしておいてください」
 凛乃の強引さに若干引きながらも、累はうなずいた。濡れたままの手でヘッドフォンを耳にはめ、音楽プレイヤーをОNにする。これからまだ仕事をするということだろう。
 累としゃべるたびに、時間を過ごすごとに、印象が微調整されていく。初対面では見てはいけないものを見たかと思ったけど、どんどん実体が立ち現われてくる。
「ちなみにどんなものを聴いてるんですか?」
 立ち去りかけていた累が、耳からヘッドフォンをずらした。「ん?」
「あ、すみません呼び止めて。なにを聴いてらっしゃるのかなーと思って、口に出ちゃっただけです」
「なに、って……」累の視線が左斜め上を泳ぐ。「“音楽”?」
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