御曹司は初心な彼女を腕の中に抱きとめたい
あの旅行の後もお互いに連絡は欠かさず取り合っていた。でも私の中の蟠りが蒼生さんへの気持ちにブレーキがかかる。
ちょうど彼は仕事がまた忙しいらしく、会えないのが幸いだった。
蒼生さんを好きな気持ちは変わらない。でも私はこれからどうしていったらいいのだろう。
頭の中で整理できず、仕事でも小さなミスが続いてしまい、珍しく残業となってしまった。社内報のチェックを頼まれていたのにすっかり抜け落ちてしまい編集や印刷に回す関係で今日中にチェックせねばならず、静かになった社内で原稿を見ていた。
今回は弓川社長の会談や今後の展望が中心になっている。カメラマンに撮ってもらった写真をぼんやり眺めていたところ、私の目を疑うものが写っていた。

「蒼生さん?」

小さな声が漏れ出てしまった。弓川社長とともに向かい合わせで座り、にこやかに会談している姿を収めた写真だった。私は食い入るように記事を読むと、やはり名前も間違いない。彼は仕事の時にはいつも前髪を下ろし、目立たないようにしていたはずなのに、この写真に写る蒼生さんは前髪をアップしきちんとセットしていた。いつものカジュアルなジャケットではなく、いつもの印象と全く違う三揃いので光沢感のあるスーツだった。ぱっと見ただけでは彼とわからなかったかもしれない。記事を読むと、ふたりは同級生で同じように会社を背負う立場にある御曹司。今の立場に驕ることなく切磋琢磨していると書かれていた。仕事内容こそ違うが、お互いに刺激し合う関係でもあると中の良さを感じる内容だった。
まさか彼が三橋製薬の御曹司だったとは……。でも思い当たることは沢山あった。むしろ彼が御曹司だと聞いて納得してしまった。こんなに育った環境が違ったのだと笑うしかなかった。彼の生活レベルと私の生活レベルはあまりにかけ離れている。彼は面白半分で付き合っているのかもしれない。だからこそメッセージのやり取りはしてもなかなか会えないのだろう。家に招待してくれないのも納得ができた。私が玉の輿に乗ろうとするのではないかと考えて警戒しているのかもしれない。そもそも私は彼が御曹司だなんて知りもしなかったのだが。
今まで空いていたパズルがスッと収まるよう納得した。
ネットで検索すると彼の顔写真はほとんど見つけられなかったが、三橋製薬の後継者で、彼自身の経歴も分かった。
私の知る彼はほんの一部で、隠されていたことの方が多いのだと感じ、悲しくなった。彼が誰であれ、隠し事をする人とは付き合えない。
こんなに好きになってしまったのに、と涙が止まらない。残業のために残っていたのに、まさかこんな現実を知る羽目になるとは思っても見なかった。涙が頬を流れ落ちる。何度手で拭っても、流れ始めた涙は止められない。近くにあったハンドタオルに顔を埋めた。止まらない涙に嗚咽が漏れる。誰もいない時間で良かった。
けれど私のバッグの中からスマホが鳴り始めた。静かなフロアに音が鳴り響く。
スマホを取り出すと、今一番話たくない蒼生さんからだった。スマホを手に、私は出れずに見つめていると電話は切れてしまった。
すぐにメッセージの受信もしたが、私はそれを見ることもできずにそっとバッグに戻した。
社内報のチェックをなんとか終わらせ、会社の外に出た。10月になりだんだんと空気が冷たくなるこの季節。日中はまだ暑いのに夜になると肌寒い。
先ほど知ってしまったショックが大きく、ふらふらしながらマンションへと帰ってきた。すると玄関の前に立つ人の姿が見えた。仕事の後なのか、前髪を垂らしているいつもの蒼生さんがいたのだ。驚き、思わず私は身を隠した。彼がくるのはままあることだが、私とのメッセージのやり取りがないままに来たのは初めてだ。もしかしたらさっきのメッセージはその連絡だったのかもしれないと今気がついた。どうしよう。こんな顔のまま、私の頭が整理されていないのに会うなんてできない。
私は来た道をそっと駅の方向に向け歩き出した。マンションの前で待つ彼をそのままに背を向け、歩き始めるのは正直いいものではない。けれど今は正面から向き合う覚悟ができていなかった。
駅に戻るとカフェに入った。ここで時間を潰してマンションに戻ろうと思うが、あとどのくらいここにいたら彼は諦めくれるのかわからない。結局23時前までここで時間を潰し帰宅するとすでに彼の姿はなかった。
< 36 / 60 >

この作品をシェア

pagetop