御曹司は初心な彼女を腕の中に抱きとめたい
帰りのだと電車の中でようやくスマホの電源を入れた。
数件の着信と20通のメッセージの受信表示があり驚いた。どちらも彼からのものばかりだった。
電車の中でメッセージを開くと、【仕事が早く終わったから行ってもいいか?】から始まり【部屋の前にきたが帰ってきていないので心配】【帰りが遅いのなら職場まで迎えに行こうか?】【気がついたら連絡が欲しい】【どうした? 何かあったのか?】こんな心配ばかりのメッセージに思わず電車の中なのに涙目になってしまった。でもあまりの心配っぷりが嬉しくもあり、胸の奥が温かくなった。

どうしよう、やっぱり彼が好き!

この気持ちをどう表現したらいいのかわからない。もどかしくなるくらいに彼のことが好きだと思った。

電車を降りたところで既読になったことに気がついた彼が電話をかけてきた。
私は迷わず電話に出た。

『みちる! 今どこだ?』

「最寄り駅に今着いたところです」

『分かった』

それだけ言うと電話は切れてしまった。
私は彼への気持ちが昂っていたのに電話が切れてしまい、なんだか拍子抜けしてしまう。トボトボと改札を出て、マンションに歩き出したところ、彼が正面からすごい勢いで走ってきた。
私の目の前まで来ると何も言わず急に抱きしめられた。寒くなってきたのに、彼は少し汗ばんでいた。

「みちる、心配いていたんだ。何があったんだ?」

私を抱きしめたままで頭上から彼の声が聞こえてきた。少し息切れしている彼は多分私のマンションに今日もきていたのだろう。そこから走ってきてくれたんだと思うだけ嬉しくて仕方ない。

「ごめんなさい」

「謝らなくていいんだ。ただ、心配だっただけなんだ。うざったいよな」

照れ隠しのような苦笑いをする彼は本当に私の心配をしてくれたんだと感じることができた。そのおかげで彼に向き合おうと覚悟ができた。彼の胸の中から抜け出すと、彼の目を見つめ「話したいことがある」と伝えた。
彼に手を引かれマンションまで歩き出す。なんの話かわからない彼と、緊張している私の間に会話はない。
マンションの鍵を開けると、玄関で彼に唇を塞がれた。

あ、ふぅ……ん
久しぶりの彼のキスはいつものキスと違い、なんだか性急なものだった。
彼の胸を叩くが、一向にやめてくれない。
キスの合間で彼は「別れない」と呟いた。
別れない? 私の理解は追いつかない。
なぜ別れる話になったのだろう。

「ちょっと、蒼生さん」

強引に彼を押すとようやく彼は離れてくれた。

「みちる、俺は別れない」

力強い目力に圧倒される。

「そんな話していません」

「だったらなんの話だ?」

「とにかく部屋に上がってください」

マンションの三和土では狭くて仕方ない。私が靴を脱ぐと彼もそれに倣った。いつものソファに座ってもらうと私はお湯を沸かしにキッチンに立った。コーヒーを入れると彼の前に置く。私は彼ときちんと話したくていつものように隣ではなく、向かいに座った。それを蒼生さんは訝しげな表情で見つめていた。

「昨日はごめんなさい。何度も連絡をくれたのに出れなかった」

「いいんだ。俺が勝手に心配しただけなんだから」

「私が弓川コーポレーションで働いているのは知っているよね? それでね、昨日社内報のチェックをしていて見てしまったの。蒼生さんが三橋製薬の御曹司だって書かれていた記事」

あ……。彼はすぐに言葉が出てこなかった。まさか私がその記事に気がつくとは思っていなかったのだろう。
やはり隠し続けるつもりだったのかと、私も次の言葉が出てこない。

「ごめん。みちるには知られたくなかった」

やっぱり。
私は彼にとってなんだったんだろう。彼の何を知った気になっていたのだろう。悲しくて、切なくて、気がついたついたら膝の上に涙が落ちていた。

「違う! 言い方を間違えた。みちるには三橋の跡取りとしてではなく、俺自身を見て欲しかったんだ。色眼鏡でなく、本当の俺を」

彼はポケットからハンカチをだすと私の涙を拭ってくれる。

「みちる、最初に会った時のこと覚えているだろ? あんな喋らない、面白くもない、さらには見た目も不気味な男と話したくないって普通は思うもんだろう。でも違った。なんの垣根もなく、普通に話しかけてくれたのはみちるだけだった。その後だってみちるは俺の見た目なんて気にせず付き合ってくれただろ。今まで見てきた女性はみんな打算が見え隠れしている人ばかりでうんざりだったんだ。そんな時に会ったみちるは俺にとって特別だった」

彼の言葉はストレートに私の心に入ってきた。俯いたままの私の頭を何度もそっと撫でてくれるその手は優しくて、私を甘やかす。

「俺が前髪を上げたときも変わらなかっただろう? ごめん、正直なところ、顔を見たら色目を使われるんじゃないかと警戒していたんだ。自意識過剰だよな」

いや、彼の顔は一般的に見てもかなり整っていると思う。周囲の女性は放っておかないだろう。ましてや、三橋製薬の跡取りなら余計だ。

「そんな……。蒼生さんはいつでも素敵です」

「ありがとう。どんな時でもそう言ってくれるのはみちるだけだ。だから御曹司としての自分ではなく、素の自分だけを見て欲しかった。もしみちるが俺をそんな目で見るようになったらと思うと不安になった。自分の価値は三橋製薬の跡取りなだけだと言われているような気持ちになると思った。みちるを信じている、でも……と、考えれば考えるほどに言い出せなくなっていった」

「私にとって蒼生さんは蒼生さんです。でも、やっぱり隠されていたことがショックでした。私は反対に、三橋製薬の御曹司だと知られたら困るから話してくれない、そんな程度の存在だったんだと思ったんです」

「まさか」

彼は慌てて否定した。

「記事を読んで、私と蒼生さんは何もかもが違いすぎていました。私の普通と蒼生さんの普通は違うんだと思ったの。だから蒼生さんにとって私は都合のいい時に会う、そんな関係なのかもしれないと」

私がここまで話すと彼は立ち上がり、私のそばにやってきて強く抱きしめてきた。

「みちる、俺はみちるのことが本当に好きだ。愛してる。都合のいい時だけ会う女だなんて思っていない。仕事が忙しくて不安にさせたのなら謝る」

「違うの。私も蒼生さんの仕事が忙しいって分かっているつもり。でも記事を読んで、ネットも検索してしまったの。そうしたら蒼生さんは私と違う世界の人のように感じて、勝手に想像して、悲観してしまったの」

抱きしめられた手に力が込められる。私もそっと彼の背中に手を回した。

「確かに俺は三橋製薬の跡取りだ。でもそれは今すぐの話ではない。俺のやりたかった研究を今はさせてもらっているんだ。俺を育ててくれた祖母はガンだった。気がついた時にはもう進行していて根治治療はできなかった。薬を扱う会社なのに身内さえ助けられなかったとショックだった。少しでもこんな気持ちになる人が少なくなってほしくて新薬の研究をしているんだ」

蒼生さんからはガンの薬を研究していると聞いたことがあった。でも理由まで聞いていなかった。
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