君の鼓動を、もう一度
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病室のカーテンが、夜風にわずかに揺れていた。
人工呼吸器が外され、静けさだけが残された空間に、悠斗はひとり座っていた。
目の前には、もう動かない美咲の姿。
その手を握ったまま、声も出せず、ただ時間が止まったように座り込んでいた。
「……俺、医者なのにな」
ぽつりと漏れた声は、誰にも届かない。
命を救うはずの手で、彼女を守ることはできなかった。
そのとき、小さな紙袋に気づいた。
ベッド脇の棚に、そっと置かれていた封筒。
そこには、優しい筆跡でこう書かれていた。
『先生へ』
悠斗は震える手でそれを開いた。
読んでるってことは、きっと私は…もう、先生の前からいなくなってるんだよね。
なんかごめんね、こんな形でお別れすることになるなんて、私も本当は想像してなかった。
でも、どうしても伝えておきたかったから、こうして手紙を書いてます。
先生と出会って、私はずっと感じてたんだ。
「生きてる」って、ちゃんと思えたのは、先生が真剣に向き合ってくれたから。
最初はね、ただカッコいいなって思ってただけだった。
でも気づいたら、先生の言葉一つひとつに、救われてた。
不安で眠れなかった夜も、手術が怖くて泣きそうになったときも、
先生がそばにいてくれるってだけで、心があったかくなった。
本当は、もっともっと先生と話したかったな。
もっといろんな顔、見たかったな。
できれば……もっと、恋をしてたかった。
でも、十分幸せだったよ。
誰よりも大好きな人に、命を託せたから。
先生、ちゃんとご飯食べてね?
ちゃんと眠って、ちゃんと前を向いて。
泣き虫な私が言うのも変だけど……先生には、幸せになってほしいの。
……でも、もし、たまに私のこと思い出してくれたら、ちょっと嬉しい。
短い人生だったけど、先生に出会えたことが、私のいちばんの宝物でした。
――桜井美咲
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便箋を握りしめたまま、悠斗の肩が静かに揺れる。
声も出さず、涙だけが溢れて止まらなかった。
この命を、自分の手で繋げなかったこと。
でも、最期の想いを確かに受け取ったこと。
それは、彼の心に深く刻まれた
美咲の手紙を胸にしまったあと、悠斗はそっと立ち上がった。
窓の外では朝日が昇りかけていた。
眠らない街の片隅で、ひとつの命が静かに終わったということを、世界は知らずに回り続ける。
それが悔しくて、たまらなかった。
(どうして君が選ばれたんだろうな、こんな運命に)
手術着の袖が、涙で少し湿っていた。
(俺は医者なのに……最後まで、何もしてやれなかった)
でも──
(それでも君は、ありがとうって言ってくれた。こんな俺に、宝物だったって)
窓辺に歩み寄り、夜が明けきる空を見上げた。
胸の奥に残る痛みが、静かに鼓動している。
「美咲……」
声が、かすれる。
「俺さ……君を患者としてじゃなくて、一人の女性として、ちゃんと愛してたよ」
答えは、ない。
でも、それでもよかった。
君の命が尽きたとしても、
君の想いは、確かに俺の中に残っている。
生きることの意味を、君が教えてくれた。
そしてその命が、俺の中に確かに繋がっているなら――
俺は、これからも前を向いて生きていく。
たとえ、もう二度と君に会えなくても。
ありがとう。
さようなら。
そして、愛してる。
──カーテンの隙間から、朝の光がそっと病室を照らした。
