あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
 帰宅後、ひなは急いで着替えると、すぐに奥座敷へ向かった。
 部屋の中には清栄がひとり、卓に向かって筆を滑らせていた。
 彼女の背筋はすっと伸び、ひなの足音にも顔を上げない。
 ひなは膝をつき、短く息を吸った。

「──あの、大奥様。今日のご縁談の件なのですが……」

 言い終わらないうちに、清栄はふっと微笑み、視線を向けた。

「あら、なぁに? ひなもお会いしてみて、良かったでしょう? 相手はうちと同じ子爵家。お家柄も申し分なし。不自由はさせないと思うわよ。あんな好条件の方、そうそういないわ」

 柔らかい声音とは裏腹に返された言葉は、まるでひなの言い分を封じ込めるようだった。
 ひなは唇を噛み、勇気を振り絞る。

「ですが……! もし、薬を作れなくなったら、旦那様の──」
「ひな」

 被せるように発せられたその声には、かすかに冷たさが混じっていた。

「あなた、選り好みしている時間はないのよ。あちらが、平民のあなたでも構わないと仰っているの。これは、めったにないご縁なのよ。ありがたく思いなさい」

 その物言いは、決して強くない。けれど柔らかい棘のように、ひなの胸を突いた。
 この人に何を言っても無駄なのだ──そう悟った瞬間、体の芯から力が抜けそうになる。
 それでも、諦めるわけにはいかなかった。

「わ、私は……このまま、早乙女家で働いていたいのです……」

 ほんのわずかな震えが、声に滲む。

「まあ」

 清栄は目を細め、卓に向かっていた筆を静かに置いた。
 文箱の蓋の閉じる音が、妙に室内に響く。

「私の持ってきた縁談に、不服でもあるの?」

 ──不服ばかりです。
 そう叫びたい気持ちが、胸の奥で渦を巻く。

 だが、清栄の穏やかな微笑みと、その裏に潜む硬質な気配に、ひなは思わず言葉を飲み込んだ。彼女の前では、どんな正論も通じない──そう直感してしまう。

「いえ……そういうわけでは……」

 掠れるような声で答えた自分に、思わず唇を噛む。
 結局、話は最後まで噛み合わなかった。
 そしてただひとつ、次に会えば婚約が決まるという現実だけが、冷たく重たい鎖のように、ひなの心へと音もなく絡みついた。

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