あやまちは、あなたの腕の中で〜お見合い相手と結婚したくないので、純潔はあなたに捧げます〜
 ぴたりと時を計ったような折だった。
 入ってきたのは、背広(スーツ)姿の背筋の通った青年。黒髪に精悍な顔立ち。
 すっと伸びた背筋と、動きに無駄のない所作は、かつて軍に身を置いていたことを物語っている。
 
(……この方が、早乙女慶一郎様)

 ひなの心臓が、ほんのわずかに跳ねる。
 噂では「冷酷」などと囁かれていたが、実際に対面してみると、その表情はたしかに硬い。眉間にはかすかな皺が刻まれ、感情を読ませない眼差しには、どこか近寄りがたい空気が漂っている。しかし、銀色の眼鏡の奥から覗く瞳には、落ち着いた知性と品の良さが見られ、ただの恐ろしい人物ではないのかもしれない、とひなは思った。

「これは、お客様でしたか。失礼いたしました」

 慶一郎は低く穏やかな声でそう言い、場の空気を乱すことのないよう一礼して、静かに下がろうとした。
 
「慶一郎、こちら、例の薬師さんよ」

 清栄が言葉を添えると、慶一郎の視線がひなに向けられる。
 その黒曜石のような瞳に見つめられ、ひなは自然と背筋を伸ばした。

「藤田ひなと申します」

 立ち上がり深く頭を下げたひなに、慶一郎は目を見開いた。

「おお、君が」

 若すぎる薬師に、意外さを隠せない様子だったが、すぐにその表情を穏やかに引き締めた。

「早乙女製薬としての話は終わりました。やはり量産はできないそうよ」

 清栄がそう締めくくると、慶一郎はゆっくりと頷いた。

「そうか……。ご足労をかけた」
「いえ……」

 ひなはか細い声で返答する。

「あとは慶一郎、あなたが話しなさい」

 そう言い残し、清栄は立ち上がった。
 品のある足取りで応接室を出ていくと、その場にはひなと慶一郎、そして控えていた女中頭・山根だけが残された。
 ひなは、緊張しながら洋卓の上にある包みに視線を落とす。

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