三十路で初恋、仕切り直します。
泰菜は幼少期を除いて、異性とお風呂に入ったことは一度もなかった。
最近まで付き合っていた彼にそれとなく一緒に入りたいと言われたこともあったけれど、いつもはぐらかしていた。恥ずかしさもあったけれど、わざわざ他人と一緒に湯につかることに意味を感じられなかったし、寝室以外の場所で互いの素肌を晒すことに抵抗感もあった。
そんな自分の頭の固さが、彼の目にはつまらない女として映っていたのかもしれない。
世間的にはえっちをした仲ならお風呂くらい一緒に入るのが普通なのだろうか。先ほどの法資の気負いの無い口調を思い返しても、一緒に湯につかることなどたいしたことではないようで、頑なになってる自分の方がおかしいような気までしてくる。
「……ちがうちがう、だいたい法資のは絶対また人のことからかってただけだしっ」
今度はお湯の中に投げ出した脚を上下にばたばたさせる。
仮に冗談じゃなかったとしても、付き合ってもいない女にそんなことをいえてしまう法資のほうがおかしいのだ。あんないかにも女慣れした奴の言うことなんて真に受けてはいけない。
「一緒に入るわけあるか、馬鹿」
思っていた以上にリラックスしていたらしく、呟いていたはずの声はいつの間にか大きなものになっていた。
はっと我に返って辺りを見渡すと少し離れた柱の陰に、妙齢のご婦人がいることに気付く。思わず呆然としていると、目が合ったその婦人はにこりと泰菜に笑いかけてきた。この距離では、たぶん自分の呟きはみんな婦人の耳まで届いていただろう。
--------あああっ。しにたい……!
30も過ぎると失恋くらいじゃ死にたいとまでは思わなくなるが、恥ずかしい思いをしたときには心底この世から消えてしまいたくなる。
恥じ入った泰菜がうるさい独り言を呟いていたことを詫びるように軽く会釈すると、ご婦人は「いいのよ」とでもいうように軽く会釈を返して浴槽から出て行く。
わたしも益体のつかないことをいつまでも考えてないでそろそろ出ようかしらと顔を上げると、先ほど婦人がいたあたりに何かが落ちていることに気付いた。
「あ、あの。この髪留め、落とされませんでしたか」
拾って慌てて追いかけると、振り返った婦人は「まあ」と破顔する。
「わざわざどうも。……気になさらないでどうぞごゆっくりね」
やさしく笑いかけられてますますいたたまれなくなりながら、泰菜はもう一度大浴場の湯船に身を沈めた。