三十路で初恋、仕切り直します。
「で。なんの話だったか?」
喫煙所まで来るとポケットから取り出したホープに火を点けながら、田子は勿体ぶった様に言う。
普段は自分の長話が部下や後輩たちに煙たがられると自覚している所為か、泰菜から話を乞うような目で見られていることにひどく機嫌を良くしていた。
「20分の超特急プロポーズの話ですよ」
「ああ」
相槌を打つと煙草から口を離して、わざとらしいくらいゆっくり紫煙を吹き出す。
「お、奥様はそれで『はい』って言ったんですか?」
「俺との結婚をか?」
しびれを切らして泰菜が訊くと、さも当然のことのように田子は答えた。
「そんなの『いい』っつったからウチのカミさんになったに決まってんだろうがよ」
かいつまんで聞いた話はこうだった。
田子と妻の美恵子の出会いはお見合いで、しかも仲介者が当時の工場長だったこともあって乗り気じゃなかった田子も渋々お見合いの席に足を運んだ。
お見合いといっても少々砕けたスタイルで、デパートで有名な松江屋が手掛けるサロンで、小洒落た軽食を食べながら会食のような雰囲気で行われた。
田子が欠伸の出るような退屈を感じていたそのとき。ある小さな事件が起きた。
「……ゴキブリがな、出たんだよ」
田子は芝居がかったように声を潜めて言う。
「ウチの食堂ならともかく、おきれいなデパートのサロンにだぜ?しかもチャバネとか小型の方じゃねぇデカい奴の方よ。もうサロンは客の着飾った奥様たちも給仕のおきれいなおねぇちゃんもおにいちゃんも大パニックでな。そんなとき、自分の穿いてた靴脱いで、握り締めたそれで一撃で仕留めた女がいてな」
まさかそれが奥様ですか、と恐々訊くと田子はにやっと笑って頷いた。
「普通の女なら見合いじゃ淑やかぶって、こっちが聞きたくもねぇつまんねぇ話をうそ臭い笑顔浮かべて話してるもんだろ?それを紺色の上品なワンピース着た若い女がよ、鮮やかにゴキ退治なんてまさかの姿だろ?おまけに女房の奴、米搗きバッタみたいに謝るサロンの支配人に『いいんです、これで落ち着いてこの人とお話が出来ますから』って俺をちらっと見て笑って言ったんだよ。その瞬間脳天にズッガーンって、雷みたいなもんがホントに走ってな」
当時のことを思い出してか、田子は愉快そうにくっくっと笑う。
「断るつもりで行ったのに、その場でまるで飾りッ気のねぇ女房の豪胆さに惚れちまったんだ。そのとき俺ァは一生この女に着いて行こうって決めたねぇ」
ゴキブリが繋いだ縁なのかと思うとなんだか背中がむずむずしてくるけれど、田子はにやにやとどこか幸福そうに笑っている。