三十路で初恋、仕切り直します。
「たーちゃんてさ、大学、たしか英文科だったよね?」
しばらくの沈黙の後で、助手席の津田がそんなことを訊いてきた。
「もしかして今でも語学の勉強してたりする?」
大学時代にすごく好きだった児童書を原文で読み始めてから、気に入った本はネットで取り寄せて辞書を片手に読んでいた。
好きな海外ドラマやよく聴く洋楽の歌手もいるおかげで今も英語にはわりと興味があるから、祖父の一周忌を終えて身辺が落ち着いた頃から、趣味のひとつとして自宅ですこしずつラジオ講座で勉強していた。今やっているのは中級クラスのビジネス英語で、帰宅するときはよく車の中で録音を聴いている。
「人に自慢出来るほどじゃないけど……手慰め程度にだったら。でもひとに胸を張って勉強してます、得意ですって言えるレベルじゃないわ」
「そうなの?でも桃木がさ、たーちゃんのことすごく褒めてたんだよね……うわっ」
あやうく、ハンドルをおかしな方向に切りかけた。
「いきなりどうしたのたーちゃん」
「ごめん。……運転中、妙なこと言い出さないでよ」
「そんなに妙なことかな?本社でも一時たーちゃんのこと話題になってたんだよ」
「わたしが?」
まったく身に覚えのないことだ。
「何年か前にさ、静岡工場に、何の間違いなのかロンドン支社充ての電話が掛かってきたことがあったの覚えてる?」
言われてもすぐにはっきりとは思い出すことは出来ないが、思えばそんなこともあったような気がする。
あれは確かオサムと付き合いだす少し前。
現場から引き上げて事務所に戻ってくると、事務所がいつになく騒然とした雰囲気になっていたのを覚えている。異様な緊張に包まれたその中心には、受話器を持ったまま顔を蒼白にさせるオサムの姿があった。
オサムはいつもの愛想の良さが嘘のように言葉数少なに、「NO,NO」と片言の英語で喋っていた。泰菜が近寄ると、救いを求めるように受話器を離し、それを泰菜に差し向けながら、
「相原ちゃん、確か大学で英語やってたよな。頼む、何を言ってるのかさっぱり分からないんだよ」
そういって泣きついてきた。
電話のディスプレイを覗き込めば、海外からの電話だということが分かるナンバーが並んでいた。オサムから代わって電話に出ると、英語でまくし立てる相手がロンドン支社の戦略部に電話をかけるつもりだったのに、何の間違いか日本の工場に掛けてしまったらしいということが分かった。
泰菜は手元に社内の電話帳を用意すると、そこから見付けたロンドン支社の番号を伝えて、それからロンドン支社の方に電話を転送した。
思い出せるのはたったそれだけのことだ。
「ああ。……そんなたいしたことしてないけど。そんなこともあったっけ……?」
「工場の事務所はたーちゃんが電話代わるまでみんなで電話なすりつけ合ってパニック状態になってたって聞いたよ?冷静に対応出来たたーちゃんは十分すごいと思うけど」
「全然そんなことないってば」
正直に言えば、相手方の言っていたことは電話だったこともありすべてが理解できたわけではなかった。けれど、簡単な英語のやりとりだけで無事に意思の疎通がはかれたことにほっとしたことは思い出せる。
ロンドン支社の担当の鈴木さんだか佐藤さんだとかいうひとから、その後丁寧なお礼の電話があったこともぼんやり思い出す。英語力だったかコミュニケーション能力だったかを褒められたことは、かなり面映かった。
「……支社のひとになんだかものすごく感謝されちゃって、逆に申し訳なく思ったのよね」
「その支社の人なんだけどさ、鈴木さんっていうんだけど覚えてる?」
かろうじて、重みのある渋い声だったから、鈴木氏が自分より大分上の世代のひとなんだろうと思ったことだけは記憶にあった。
「……ぼんやり名前だけなら」
「その人なんだけどさ、今シンガポールで戦略室の室長やってる人なんだよ」
聞き覚えのある国名に部署。泰菜の横顔をちらりと見て、津田は愉快げに続けた。
「つまりね、桃木の今の上司ってこと」